カポーティという作家は
ある意味では成長することの哀しみと痛みを終始描き続けた作家であった。
彼はある場合には非常に知的に
――誰にも真似のできないほど知的に繊細に幻想的に――
その悲しみと痛みを描いた。
またある場合には研ぎ澄まされた歯と爪を用いて
きわめて挑戦的にそれを描いた。
しかしある場合には、彼は眼を閉じて、ただそこに戻っていった。
スックが特別製のフルーツケーキを焼き
クィーニーが尻尾を振って駆け回り、美しい小川が流れ
優しい深南部の風が平原を渡る、アラバマの田舎町に。
季節はクリスマスであり
彼は傷つくという意味をまだ正確には把握していない
六歳か七歳の少年であった。
彼は、事情があって父母に遺棄され
母親の実家に押し付けられるように預けられた少年であった。
そしてその事実は少年の心を徐々に
やがて取り返しのつかないほどに傷つけていく。
もちろんこのクリスマス・ワールドにあっては
彼はまだみんなに守られている。
スックやクィーニーが彼の無垢な心を外界から隔てている。
村上春樹
『あるクリスマス』のためのノート、より。
*
トルーマン・カポーティーを続けて読んでいる。
なぜだか、わからないけど。
「冷血」を読んだのはうんと若い頃で
「ティファニーで朝食を」を読んだのはその四半世紀以上はあとで。
そこからたぶん10年以上経って、今年。
カポーティのイノセント・ストーリーと呼ばれる
「草の竪琴」を読み
立て続けにクリスマスの短編をふたつ読んだ。
カポーティーという作家は
アメリカ文学と相性の良くない私には謎で。
「草の竪琴」のあと
アマプラにあったカポーティのドキュメンタリまで観たりした。
なぜ、どこが、なんで、好きなのかまったく言語化できないんだけど
なぜだか読んでしまう。
続けて「おじいさんの思い出」のページを開いたとこです。
*
親は、こどもに、あたりまえに
充分な保護や温かな愛情を授けるべきで。
離婚した夫婦も壊れてしまった家庭も
いまも昔も珍しくもないけれど
こどもにとって親って
直接的に求める想いが強すぎて
それが報われても叶えられなくても、重すぎる記憶になったりする。
永遠のこどもカポーティが6歳だったころ
60歳の従姉と過ごしたいくつかの季節だけが
悪意を知り理不尽にさらされる前の
やわらかで温かな記憶なんだなぁ。
*
ねえ。
サンタクロースを信じてるこどもだった?
サンタクロースなんていないって知った日のこと覚えてる?


0 件のコメント:
コメントを投稿