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2026年7月29日水曜日

おばあさんになってゆく

 



湯呑に梅干しをひとつ。
味噌をティースプン一杯。
熱いお湯を注ぐ。

梅干しを崩し、味噌を溶きながら飲む。
喉から食道、鳩尾のあたりへ柔らかい温かさが滑り降りて
おへその上のお腹がふわっと温まる。

おいしい、とカラダが言う。




昨日今日と、午後から雷雨になって
いっきに空気が冷えて過ごしやすくなったけど
湿度はそこそこあるから
うっかりすると身体が冷えてしまう。

お風呂をわかして入ろうか。
まだ3時だけど。
低気圧のせいか頭が重いし。

午前中に剪定したローズマリーがあるから湯船に入れよう。




夜は温かいものが食べたいな。
博多うどんがあるからぶわぶわに柔らかく茹でて
ざくっと切った葱もさっと湯に通して
薬味じゃなくて具としてたっぷり。
近所のお肉屋さんの美味しい牛スジの煮込みがあるから
それをのせよう。

最近はしこしこつるつるの讃岐うどんではなく
コシなんかどこ行った?みたいな
ほどけた博多うどんが食べたくなる。





最近はこういう養生的なことを
身体が素直にヨロコブのを実感する。
父が若い頃から神経痛を患っていて
鍼灸から漢方やらあれこれ試していたので
馴染みはあるんだけれど
若い身体はエナジーに満ちて強靭で
優しい養生を必要と感じとる繊細さがなかった。




繊細になった。

歳をとったのだ。




歳をとるというのは
ブッフェ形式の食事に嬉しさを覚えなくなること。
種類も量も金額も、もう自分に合っていないと感じること。

歳をとるというのは
魚の食べ方が下手になること。
取り損なった鮭の小骨が口の中で逃げ回って
うっかり飲み込みそうになって冷や汗をかく。

歳をとるというのは
箸を指の延長のように使えなくなること。
プチトマトが
箸先を滑って逃げ出してテーブルを転がる。
豆腐が崩壊して落下する。

歳をとると鈍くさくなる。
気を付けて食べているのに食事が終わってから
シャツの胸元にご飯粒がカピカピになっている。
たらりとお出汁がちいさな染みをつくっている。
指先も唇もなんとも鈍い。


料理だってそうだ。
家庭の料理は8割がた段取りと手際だと思うけど
合わせておくべき調味料を一つ忘れて
慌てて足して餡がダマになったり
茹でた素麵を笊に上げるつもりで
隣の鍋の鶏茄子のだし汁を笊にぶちまけたり
煮物に火を入れてる間に流しの洗い物をしようとして
ボウルに勢い良く流れ落ちた水が
洗剤の泡ごと弧を描いて煮物の鍋に飛び込んだり
右手でフライパンを振りながら
左手でコショウを取ろうとしたら
ガスレンジに炒飯ぶちまけたり

ちょっと笑っちゃうくらい鈍くさい。

もう、器用な真似はしちゃダメだなと思う。
アレ作りながらコレも作るとか
右手左手別のミッションこなすとかやめて
ひとつひとつ。

鈍くさくなった自分慣れてゆこう。



こうやっておばあさんになってゆく。




2025年8月31日日曜日

夏庭の花






読書する部屋から夏庭の花を眺める。

コロナ禍をきっかけに庭に花木を植えた。
ベランダで育てていたサルスベリとセイヨウニンジンボク。

家の南側にアパートが建ってしまい
外階段を住人が通るので、その目隠しになる場所に植えた。
植えたときは、一階の部屋を私が使うあてなどなかったのだけれど。

一階の掃き出し窓のガラスは型板硝子なので
エアコンを効かせて戸を小さく開けたり閉めたりしながら眺めている。

今日は最高気温37度、38度予想なのだけれど
風に揺れる花枝とひかりに透ける葉と、花を訪れる蝶や花蜂を見ていると
こんな狂気じみた暑さや世の中をつかのま忘れる。







サルスベリ


去年、背が高くなり過ぎたので強剪定したのだけど
一階から眺めるのにちょうど良い高さで咲いてくれている。
花期が長いので、まだ2週間くらいは咲いてくれるだろう。




セイヨウニンジンボク


これは地植えにして本当に正解だったなぁ。
2メートルちょっとの樹高が良い目隠しになるし
咲き終わった花穂を切ってやるとまたあとから花穂が上がってきて
7月の下旬からずっと咲き続けてくれている。
葉枝の広がりは涼やかで風に揺れる姿がほんとうにキレイ。

今年、春先に葉が病気になって茶色く変色して心配したけど
病葉を切って、混みあってる下枝も伐って風通しを良くしてあげたら
花の時期には復活してくれた。
菊のような匂いのするセイヨウニンジンボクの葉を
触れるのが好きだ。





風に踊る夏の花。
ゆらゆら踊る。

風を動画に収めるのは、むずかしい。








近所を歩いていると
古い家の建て替えが進んでいるのが目につく。

実がたわわに生るビワの木があったり、枝を大きくはるクスノキがあったり
キンモクセイが大木になっていたり
立派な門冠の松があったり
そこに根付いて何十年にもなるのが見て取れる樹々の健やかさと対照的に
そこに建つ家はオールドファッションで朽ちた気配で。

それらの家に住人の気配が消えて
どのくらいだろう、1年か1年半かなぁと思っていると
ある日突然ブルドーザーが入って更地になる。
庭木が豊かに根付くような家は
いまの建売の建坪からすると少しばかり大きいのだろうな
たいてい分割されて2軒建てるか2階建てのアパートになる。
塀も、門もなければ、当然植栽などもない。

そんなふうに更新されていく街並みに気づくたび
そうか、そうだよなと納得するような小さなため息が漏れる。



もうこの家手放す、引っ越すと思い定めながら
ベランダの鉢植えを庭に下ろして大きくしたり
ギボウシの株分けしたりアジサイやムクゲの挿し枝したり。

なにやってんだかなぁと思うし
なんだか庭の樹々への裏切りを隠してるような気さえして後ろめたい。
まあ、こんな考えたってどうしようもないこと
考えずにいられないのが私の性分なんだけど。

馬鹿みたいだな。





2025年6月25日水曜日

緑に染まる

 




太平洋上の、台風になり損ねた低気圧のせいで
今日は夜明け前から激しい雨が降ったり止んだり。

陽が射して、上がるのかな?と思うと
バケツをひっくり返したような雨。
空のバケツリレー?

気温は低いけど湿度がすごくて
窓を閉めていちにちぼんやりと過ごす。




本を読む部屋の外に植えた
アジサイ、セイヨウニンジンボク、サルスベリが
健やかに根を張って枝葉を伸ばしてくれて
昭和な型板硝子が緑色に染まって綺麗だ。

窓を開けられる時は
枝が風に揺れるのを飽かず眺めるけど
窓を染める緑の光にも見惚れてしまう。






今日はもう本も読まず
気が付けば一日終わりそうな午後5時。
ミドリイロって時間を忘れさせる魔法のひかり?


仕事行ってた時は昼休憩までが長くて
午後の時間は滞って時計は止まってるようだった。
ばたばたと忙しいから時間が早く流れるというわけでもないんだな。

この頃はほんとにぼぉんやりと日が暮れるなぁ。

いまさら建設的な生き方探したりしないし
クリエイティブな時間も求めてないけど
もちょっとなにか焦るべき?

まあ、いっか。
御隠居さんの時間は腹時計で進んでいくんだしね。



あ、窓汚れてるね、硝子拭きはしようかな。
そのうち、ね。




2025年2月7日金曜日

キレイゴトと他人事





喫茶「ぽえむ」


ぽえむといえば阿佐ヶ谷、中央線と思うけど
こんな私鉄沿線にもお店あったんだね。

スターバックスで寛げない私には
このオールドファッションな“喫茶店”は良い。







こういう懐かしいものをみつけて
カナシミが湧いてくるのはなぜなんだろう。

歳を取ったから?だよね。

歳取ったことを哀しいとは思ってないけれど
でも、これは歳を経たいまだから感じるんだろうし。
胸の中にそっと吹くちいさな風のような感覚が不思議。







岸政彦が聞き書きを続けている生活史について「生活史とは、個人の生い立ちと人生の語りである」とある雑誌に書いていて。
それを読んで去年、なんだか辛くて中断した「大阪」を思い出した。
去年は、「個人の生い立ちと人生の語り」の、その先の終焉を常に見させられている感じで、好きな作家の文章であってもなんかもう今は“お腹いっぱい”なんなら吐きそうという精神状態だったんだよね。

去年はキレイごとではない「老い」がすぐそばにあって、日々、老いと関わる些事にうんざりしながら、反対に頭の中では「老いるということ」をずうっとずっと冷ややかに見て考え続けてた。いずれはこうなるのか、という人生への諦めみたいな感想抱きながら紙パンツをゴミに出した日々。

生活史かぁ。
生活史と思い出話は違うとわかってるけど、言葉で語れるうちが花だし、生活史は他人の観賞に耐える物語だね。

ぱんぱんになるLサイズのオムツ専用ゴミ袋、どうすんのこれ?こんなもん語る言葉浮かんでこないわよ。老いのリアル。語れなくなった先に来るもの。


ツギ ワ ワタシ ダ。


ひと息ついてから。「大阪」も読み通すことができるようになったし、「人生の語り」のその先も意識の上では他人事に戻りつつある。身体は確実に、そこに向かって歩をすすめているけれど、見ないふりする。執行猶予。

取り留めないんだけど。
他人事にしないと関われないことってあるよ、あるんだよ、そうでしょ?ってなにかモヤっとする。なにが「生活史」だぁー?!みたいな(笑)
いや、岸さんの書くもの好きだし、なんなら社会学って私の専攻だったし、興味あるんだけど、そう、興味ある範囲で(他人事で)いたいって話。



ん~なに言ってんだろ、わたし。
ただの書き散らしです。



2024年3月25日月曜日

だーかーらー。







徒歩5分、車椅子押してゆっくり行っても10分の整形外科へヒアルロン酸の注射を一本打ちにいくだけのことが、なんで一日仕事みたいな疲労感になってしまうんだろう。

今日は朝から雨なんです。
天気予報を見ると午後から上がりそうだったので「今日は午後からにしようね」と伝える。
T整形の午後の診察は3時からだから、夕方行くよと言っているのに、もう注射打ちにいくことで頭がいっぱいになって着替えを始める。

だーかーらー。
まだ昼前だってば。
まだ雨降ってるし。
いいけどさ。

もともとせっかちで、買い物でもなんでも思いついたらすぐ出かけていきたいひとで。
よくお父さんにも、「まだ行かないって言ってるだろ!」ってイラつかれてたの見て、その時は笑ってたんだけど。これか。

まぁ、ここまではいいよ。
午前の受付に間に合いそうなタイミングで雨あがれば、さっと連れていけるからね。

でも雨は止みそうにない。
今日は行けるかなぁ…と思っていると、階下から呼ばれる。
はいはい。

「T整形の診察券がないのよ。あんた知らない?」
「先週帰ってきて、Tさんは毎週行くからお財布に入れとくって自分で仕舞ったでしょ?」
「ぜんぶ見たのに、ないのよ。どこそこやるわけないんだけど」
「受付で言って作り直せばいいよ」


と言ってるのに、そこから、大捜索。
「あれ見て、そこ開けてみて。 どこやったんだろう?」
たった一枚の紙ペラ探して、押し入れまで開けさすんかい。

30分くらい探し物につき合ってイラついてきたところで
「いいよいいよ、作り直せばいいよ」
だーかーらー、最初からそう言ってるでしょー。

失くしものはいいよ。仕方ない。
(私もつい最近、診察券より大事なモノ一式失くしたしさ)


あれ、見つからない、どこやっちゃたんだろ、まいっか、作り直してもらおう。
と自分の中で解決しないんだよね。どうしようどうしように囚われちゃうのが「老いる」ってことなのかもしれないけど。ひと騒ぎしないと収まらないのね。


こうやって書きだしてみると、ほんとどうでもいいこと過ぎて、私もそんなイラつかなくてもと思うけど、そのどーでもいいことにいちいち付き合わされてしまうことにイラついてしまうんだな。
困りごとを聞いてあげて、安心させてあげて、、、という上手い付き合い方があるんだろうけれど、そもそもこのひとには付き合いたくない、時間をさしだしたくないので、名前呼ばれた瞬間にどよんとする。

呼ばれれば行かないわけにもいかないので「なぁに?呼んだ?」って部屋へ行くけど、そこで始まるのはたいてい何度も繰り返した解決策のない心配事と彼女の願望ばかりで、こっちは「またか」と鬱な気分に染まる。

だーかーらー。

ひとの話を聞け。
聞いて理解しろ。
理解して諦めろ。
そして忘れるな。

ああ、どれも無理ね。
はぁ~鬱陶しい。



   *



私もあと20年もすればこうなるんだろうか。
話が理解できなくなって、自分の不安に頭がいっぱいになってぐるぐるぐるぐる。
私はならないよとは言い切れない。だから余計彼女を疎ましく思うんだよね。
幸か不幸か、呼びつけて繰り言を聞かせて「だーかーらー」と言わせてしまうひとは、私にはいない。「だーかーらー」は「何度おなじこというの?ボケてんの?」っていう憎しみがいっぱい詰まってるので言われたくはないけど。彼女見てると、老いることがほんとうに怖くなる。どーしたらいーんだろー。