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2026年6月27日土曜日

「語るに足る、ささやかな人生」

 




今朝見た夢に
この本に登場するアメリカのスモールタウンがでてきた。


埃だらけの大きな鉄錆色のセダンを路肩に止めて
ランチをテイクアウトしようと車を降りた。

当然ながら車は左ハンドルで
左のドアを閉めたってことは
私が運転してきたらしい(すごい!)
ちゃんと右側に寄せて止めてるから
正しく右側を走って来たらしい。
左ハンドル、右側走行などしたことないのに。


(私たちが)ここに来たって知ったら(私たちは)驚くよね。
(私たちが)いなくなる前に来てよかったよ。


友人と話しながら
ここにいることに満ち足りていた。
日本で夢を見ながら
太平洋を越えてアメリカの内陸部へ入り込み
さらに過去と現在なのか未来なのか
年単位の時間も行き来してるらしい。

夢の中でどの町をめざしてたんだろう。
夜の公園でランタンの灯りの下
アコーステッィクで奏でられるスコッツ・アイリッシュの町
マウンテンビューまで行けたら良かったんだけど。




日本では見ることのできない空の色
いちどに十何本も炸裂する落雷
水が一滴もない砂漠、車ごと吸い上げられそうな星空
海の底を走っているのかと思わせる風雨
そして光と風。

移動の充実感はこのような自然によって支えられ
そしてすさまじい自然を体験したその先にささやかな心地良い町がある
という取り合わせは
厳しい大地の中に暮らす人間の確かさというものを
温もりを持って教えてくれた。

ごくささやかな小さな町を舞台に
誰もが人生の主人公だった。
語るべき内容と信念を人生に持ち
それでいて声の大きな人物はひとりもいなかった。
大きな成功よりも小さな平和を
虚栄よりも確実な幸福を
町の住民に自分が役立つ誇りを
彼らは心から望んでいるように見えた。

そしてそのような在り方は
現在のアメリカとは完全に逆を向いており
その意味では彼らの生き方は今や
反アメリカ的と言ってもいいくらいだった。
国家と勝者が暴走する一方で
その国の内部をほんの少しでも奥へ入れば
無意味な成功と倫理観の崩壊を心から軽蔑する人たちが
かくも大勢いるのだ。

<序章 スモールタウンへようこそ>



St.GIGA繋がりで駒沢敏器を読み始めて。
屋久島の風鈴インスタレーションしか読んでいなかったのを
あらためて「地球を抱いて眠る」を全編読んだ後に
この本を読み始めて。
こんなに良い書き手だったんだぁと思う。

旅のノンフィクションなのだけれど
ほんとに“語るに足る、ささやかな人生”としか言いようのない
やさしい物語が描かれている。

アメリカという土地に暮らす人々を
はじめて好ましいと思ったような気がする。




最近、再販されて装丁が変わったけれど
この2005年の版の表紙
エドワード・ホッパーの「GAS」は
この本にとても似合っている。

駒沢敏器が
どのスモールタウンも音が少なく絵のような印象を受ける
と書いているけれど。

同じ構図を写真に焼き付けるのではなく
ひと筆ひと筆、色が置かれてゆく静かな時間を
そこにとどめることでしか
ホッパーの世界は生まれないように思えるし

車を駆って移動して
名もない人たちの日常の光景の中に身を置いて
そこから胸に残る言葉を探して彼らの代わりに語る駒沢敏器と
ホッパーはおなじひとびとに会っているような気がする。






<メモ>
スモールタウンを舞台としたアメリカ映画。

「ギルバート・グレイプ」
ああ、そうだね。
この映画のジョニー・デップとその家族の暮らし
町のひとびと。

マイケル・J・フォックス主演
「ドク・ハリウッド」

デヴィッド・リンチ監督
「ストレイト・ストーリー」

ニコラス・ケイジ主演
「パラダイスの逃亡者」


「プレイス・イン・ザ・ハート」
「マイ・ドッグ・スキップ」
「ラスト・ショー」



ああ、そうだね。
名前も知らない小さな町を舞台にした映画いっぱいあるね。
ニューヨークやLAばかりがアメリカじゃないんだった。
町の描写に注目しながら観て、見直してみたいな。



<メモ2>
ジョー・ジェウェル

ネットで聴けないかな。

2026年5月30日土曜日

わたしはここにいます あなたがそこにいてよかった

 


東京タワー。
正式名称は日本電波塔。
地上333メートル。
北緯35度39分31秒・ 東経139度44分44秒。










<  以下、横井宏「St.GIGA編成総論 夢の潮流」序より引用  >



昨年の夏の終わり
私はアメリカの作家カート・ヴォネガットから
直筆のポストカードを受け取った。
わずか七行の文面ながら、待ちに待った朗報であった。
数カ月前から彼の顧問弁護士を介し
一九五九年の作品『タイタンの妖女』に登場する
とあるキャラクターを独占的に使用したい、と申し出ていたのだ。

文章は簡潔で次のように書かれてあった。

「親愛なる横井宏様。
この度は、私の小さな恥ずかしがり屋のハーモニウムに
ご関心をお持ち頂き、大変嬉しく光栄に思います。
どうぞ、どうぞご自由に彼らをお使いください。
独占使用権に関わる費用
あるいは使い方についての事前のご連絡等、一切無用です。
ご健闘を祈ります。
カート・ヴォネガット拝」

長い間放送界にたつきを得て、海外との仕事も数多く重ねてきたが
これほどあっさりと受諾され
しかもこれほど温かく励まされたことは
いまだかつて一度もない。
胸を熱くして、この短い文章に何度目を落としたことか。
まさにハーモニウムを生み出した
まぎれもないその人の言葉であった。





ハーモニウム。
水星に棲む不思議な生物で
いくつかの美しい特徴を持っている。
その特徴と、間もなく開局する衛星系の音声放送局
セント・ギガの編成方針が添い
古い紙の中で永い眠りに耽っていたハーモニウム達が
突然たたき起こされる羽目に陥ってしまったのだ。
さぞや傍迷惑な、と思われようが
実はこのハーモニウムは決して人を恨まない。
恨まないどころか、怒り、妬み、野心、不安
といったものとは無縁の生き物である。

ヴォネガットはこの宗教性を帯びた性格に
更により精緻なデザインを施す。
まず彼らの食べ物を音楽と断じた。
つまり音を食べる生き物なのだ。
しかも、美しい音だけを。
その美しい音を食べ続ける限り、彼らは老いることがない。
不死の身体は、光を受けるとアクアマリンに染まり
目もあやな輝きを放つのだ。
そして深遠な光の中、体を震動させながら流麗な絵模様を作って
互いに並び合うという。

それにしても、ヴォネガットの真骨頂は
彼らに授けた言葉だ。
「わたしはここにいます。I'm here.」
「あなたがそこにいてよかった。I'm glad you're there.
ハーモニウムはこの二つのメッセージだけで交信し合う。
凡百の言葉で装うよりも、しかし
これらの言葉はどれほどひとの心を打つことか。





東経110度。
赤道上空36,000㎞の静止軌道に浮かぶ放送衛星ゆり3号a。
この小さな星の一隅に
ハーモニウム達が水星から移り住むこと。
そこに届く水の惑星からのくさぐさの音を選りすぐり
美しい響きのみを束ねること。
それを音の潮流に編み上げ
地上に再び送り返すこと。
セント・ギガは、これらの願いをカート・ヴォネガットに託し
そして快諾を得た。

セント・ギガの開局まで、あと数日。

深い夜空の果てに、青緑のほさきが飛流していたなら
それは引っ越しのさ中のハーモニウム達だ。
ほどなく彼らの耳には
風の音、潮騒、鳥の声、歌声、楽の調べ
怒声と罵声、銃声と砲声、人や獣たちの悲鳴など
ガイアの様々な音が届こう。
朝な夕なこれらの音から
彼らは生命の輝きと濁りを峻別した音の潮流を
生み出してくれるはずだ。
それは地球の新しい歌だ。生命の歌だ。
その歌をエネルギーにし、彼らは光り輝く体を震わせ
「わたしはここにいます」の声と共に
はるかな高みから地球めがけて音の波を送り返す。
音の波が地上に届き始めるのが
三月三十日の、満潮時午後四時十七分。





耳を澄まして頂けないだろうか。
とりどりの音楽、自然の音、水と星だけを語るひとの声に。
これらが幾層にも折り重なったセント・ギガの音の潮流に。
そして受けとめて頂けないだろうか。
彼らのあの声を。
「あなたがそこにいてよかった」を。
それは何故なら
ハーモニウムがあなたに初めて心を通わせようとしている
唯一無二の証なのだから。



開局を目前にして
1991年3月末日



<  引用おわり  >






<  以下メモ  >


上田三四二「この世この生」
立花隆「宇宙からの帰還」
西行 月への祈り
坂本龍一「TAINAI KAIKI」
ライアル・ワトソン「生命潮流」
細野晴臣「QUIET STORM」
レイチェル・カーソン「われらをめぐる海」

Non Commercial
Non DJ
Nonstop Music

カート・ヴォネガット「タイタンの妖女」




セント・ギガのステーションコールは
I'm here. I'm glad you're there. We are St.GIGA」

「タイタンの妖女」での原文は「Here I'm. So glad you're.」
原作者の了解を得て日本人の耳に馴染みやすい言い回しに変えた。








<  以下、寮美千子「水の時間」あとがきより一部引用  >



日の出から日の入りまでの「Water line(水の時)」と
日の入りから日の出までまでの「Ster line(星の時)」
CMもDJもない音楽と自然音の純粋な「音の潮流」だ。

日の出と言っても時間差がある。
日本で最初に日が昇る南東海上の南鳥島から
日本最西端の与那国島へと光は進みその差は2時間を超える。
日の出の時間帯を「Sunrise zone」と呼び
「いま〇〇に太陽が昇りました」と
リアルタイムで各地の日の出を報じる。
日の入りの時間帯は「Sunset zone」。
これにより、地球がダイナミックに回っていることが実感できた。

日が昇りきると「日本列島はすべて、光の中です」と宣言され
「星の時」が始まる。

当然、いわゆるグリニッジ標準時の時刻とは無関係だ。
だから、時報はない。
代わりに満潮と干潮の報せがある。
といっても日の出・日の入りと同じように
潮汐も各地で時間差がある。
だから各地の満潮・干潮に合わせて
「Hightide call (満潮)」「 Lowtide call(干潮)」を行った。
波の音とともにこんなふうに。


月に導かれて 水が満ちてきます
いま海は もっとも 空に 近づいています
東京芝浦は 満潮を迎えました

月に導かれて 水が引いていきます
いま海は もっとも 空から 遠ざかっています
東京芝浦は 干潮を迎えました

さらには月の満ち欠けも告知した。




<  引用おわり  >










St.GIGA。
これほど美しい、祈りと言ってもいいような理念をもって
開局した放送局があった。
1991年。バブル景気は終焉を迎えていたけれども
それでも、まだ、日本に余力があったころ。
あると思われていたころ。

でもここから長いながい景気の低迷が始まり今に至る。
失われた30年。

St.GIGAも1993年には潮流を維持できなくなる。


ゆり3号aの運用も1998年で終了する。
坂本慎太郎の「ひとりぼっちの人工衛星」を思い出して切ない。
実際にはスペースデブリになっているのかな。
ハーモニウム達は、どうしたかな。


St.GIGA。
日没の間際に稀に現れるGreen Flashのように
沈む日本国の最後の煌めきを放った放送局だったのだな。


「夢の潮流」に記述があった。
「メディアには一つの大切な義務がある」と。
それは「WITNESS」であると。
「メディア人とは時代を目撃し、証を立てなければならないひと」
であると。
ほんとうに。メディアの矜持というものも
失われてしまったね。



2026年4月11日土曜日

議事堂と図書館

 




ああ、疲れる。

国会前スタンディングは
体力的に疲労するほどのことでもない。
2015年の時ほど
気合入れてコールなんかしないし
腕振り上げる代わりにペンライトを小さく振るだけだから。

なんとなく人の流れに乗るように議事堂前の銀杏並木をゆっくり往復して
桜田門の交差点あたりで小競り合いが起きていたので
ひと足早くに離脱して帰った。


なんかもう腹立たしくて疲れるんだね。

なんで、私が、ここで、こんなこと、してなきゃいけないの?

ほんと馬鹿々々しい国って思う。






思うに、いまのPMは
自民党や日本会議や統一教会の捨て駒なんだろうな。
彼女が何かをやってくれるなんて
裏の方々も最初から微塵も思ってなさそう。
彼女ならズタボロになって消えてもなんの痛手でもないんだろう。
だから彼女の底抜けの無能さを逆に利用して
やれるだけやる、ということなんじゃないのかな。
俗っぽい自己顕示欲だけでPMになった彼女は
たぶんそんなことも気づいてないのかも。






8日のスタンディングは19時半からで
暗くなってから出かけていくのも億劫だったので
午後2時頃家を出て国会図書館に行った。

国会図書館にしか所蔵のない資料を出してもらって
ゆっくり読んだ。

伊丹十三が出していた「モノンクル」という雑誌。
なんど見返しても伊丹十三の多才に楽しませてもらう。
「櫂」という同人誌があって
谷川俊太郎、茨木のり子、大岡信、川崎洋が同人。
すごいメンバー。
前に出してもらった時には
オリジナルの合本だったんだけど
復刻版になっていて、ちょっとがっかり。
紙の本は、オリジナルと復刻では
なんかもう別物になっちゃうんだよね。
記されている文字、言葉は一緒なんだけど。

時間がたっぷりあったので
いま読んでいる途中の本を出してもらって読む。
リチャード・パワーズ「プレイグラウンド」
こんな翻訳小説の新刊の出納依頼なんてあんまりないかもね。
すごく集中して読めたな。国会図書館、良い。

閉館の7時に外へ出たらもうずいぶんと人が集まっていて
憲法変えるな、平和を守れのコールが聞こえてきた。
あ~あ面倒臭い、って思いながら人波に混ざって流れた。



2026年2月17日火曜日

「光と糸」

 




 愛ってどこにあるのかな?

 とくとく鳴ってる私の胸の中だよね。

 

 愛って何なのかな?

 私たちの胸と胸をつないでくれる金の糸だよね。









8歳のハン・ガンが書いた詩。

8歳の頃、「愛」という言葉を
私は知っていたかな?
愛ということを考えたことあっただろうか?






「光と糸」の表紙。

ハン・ガンが引っ越した一軒家には
一坪半ほどの中庭があって
そこは北向きで光がほとんど入らない。

その壁に囲われた庭にカエデとライラック
ホスタなどを植えて育てる。
複数の鏡を使って光を植物にあてながら。
15分おきに鏡の角度を変えて。
地球が自転するリズムを実感しながら。






何年か前のインタビューで。

攻撃、争奪、弱肉強食…それらはすべて動物に属している。
この動物的な世界で、植物になりたいと願った。

というようなことを語っていた。



ヒトが植物だったら。
地球の生態系はどんな進化を遂げていたんだろうね。
ちょっと見てみたいね。

文学を読むこと、書くことは
暴力の対極にある、とハン・ガンは言う。

そうだね。植物もまた、そうだね。
 











2026年1月30日金曜日

「ババヤガの夜」

 




 ダガー賞を受賞した、と聞いて
へぇ、と思い図書館で予約していた。
思ったより早くに用意されて
旅行に持っていくのにちょうど良いかと
高松行きのバッグに入れて読んだ。

翻訳ミステリは
そんなにたくさん読んでるわけではないけれど
いま、ダガー賞の受賞作品のリストを眺めたら
1960年代以降の受賞作、ノミネート作は結構読んでいて
確かにミステリ史に残る名作ぞろい。

1964年の受賞作は
ギャビン・ライアル 「もっとも危険なゲーム」
ロス・マクドナルド 「さむけ」
を抑えて受賞してて。

え?すごい、なに知らない!
H・R・F・キーティング 「パーフェクト殺人」
読んでみようかなと思ったり。




で、「ババヤガの夜」なんですが
思いっきりネタバレになると思うので
スペース空けます。






















行きの飛行機とその晩ホテルでページ開いて
さくさくと読み終えました。

うん、まあ面白かった、です、かね。
暴力を描いてエンターティメントにしてる作風が
花村萬月を連想したりしたんだけど
暴力自体の描き方は花村萬月のほうが上かもな、などと。

主人公の女性ふたりの関係性とか面白いんだけど
ちょっとボリュームが足りない印象。
190ページだから、物足りない。
もっと描きこんだもの読んでみたいなぁと思えるのだけど
ああ、でもそっかこの設定だと
これ以上のボリューム無理なのかな、とも。

というのは、ここがネタバレになるんだけど
これ、叙述ミステリなのね。

お話の結末とかラストシーンとか触れなくとも
「叙述ミステリ」って言うだけで
未読のひとに殴られるよね(笑)


叙述ミステリは感想書けないのよねぇ(笑)

まあでも、この主人公・新道依子の
ちょっと得体のしれないキャラクターは魅力的だし
いっぽうの尚子お嬢さんとの逃避行の長い年月を
普通に書き込んで描き込んだものを
読んでみたいかもなぁと思ったりもしました。

叙述ミステリの違和感を流したいあまり
さくさくと書き進むしかなかったのだろうけど。


ちなみに叙述ミステリの場合
英語で彼とか彼女、どう使ってるのかな?
あと、名前の漢字の「読み」とかね。

英語版読んだ人いたら教えてください(笑)  







でもこれ叙述である必要あったのかな?
本格的な叙述ミステリというには
単なるミスリード程度のような気も?
しないでもない。



2025年12月28日日曜日

イノセント・ストーリー

 



カポーティという作家は
ある意味では成長することの哀しみと痛みを終始描き続けた作家であった。
彼はある場合には非常に知的に
――誰にも真似のできないほど知的に繊細に幻想的に――
その悲しみと痛みを描いた。
またある場合には研ぎ澄まされた歯と爪を用いて
きわめて挑戦的にそれを描いた。
しかしある場合には、彼は眼を閉じて、ただそこに戻っていった。
スックが特別製のフルーツケーキを焼き
クィーニーが尻尾を振って駆け回り、美しい小川が流れ
優しい深南部の風が平原を渡る、アラバマの田舎町に。
季節はクリスマスであり
彼は傷つくという意味をまだ正確には把握していない
六歳か七歳の少年であった。

彼は、事情があって父母に遺棄され
母親の実家に押し付けられるように預けられた少年であった。
そしてその事実は少年の心を徐々に
やがて取り返しのつかないほどに傷つけていく。
もちろんこのクリスマス・ワールドにあっては
彼はまだみんなに守られている。
スックやクィーニーが彼の無垢な心を外界から隔てている。


村上春樹
『あるクリスマス』のためのノート、より。







トルーマン・カポーティーを続けて読んでいる。
なぜだか、わからないけど。

「冷血」を読んだのはうんと若い頃で
「ティファニーで朝食を」を読んだのはその四半世紀以上はあとで。
そこからたぶん10年以上経って、今年。
カポーティのイノセント・ストーリーと呼ばれる
「草の竪琴」を読み
立て続けにクリスマスの短編をふたつ読んだ。

カポーティーという作家は
アメリカ文学と相性の良くない私には謎で。
「草の竪琴」のあと
アマプラにあったカポーティのドキュメンタリまで観たりした。
なぜ、どこが、なんで、好きなのかまったく言語化できないんだけど
なぜだか読んでしまう。
続けて「おじいさんの思い出」のページを開いたとこです。







親は、こどもに、あたりまえに
充分な保護や温かな愛情を授けるべきで。
離婚した夫婦も壊れてしまった家庭も
いまも昔も珍しくもないけれど
こどもにとって親って
直接的に求める想いが強すぎて
それが報われても叶えられなくても、重すぎる記憶になったりする。

永遠のこどもカポーティが6歳だったころ
60歳の従姉と過ごしたいくつかの季節だけが
悪意を知り理不尽にさらされる前の
やわらかで温かな記憶なんだなぁ。








ねえ。
サンタクロースを信じてるこどもだった?
サンタクロースなんていないって知った日のこと覚えてる?