2024年12月26日木曜日

なんでそんなに美しいんだろ。





庭のモミジがほんとうに美しくて
見惚れてしまう。

毎年のことなんだけど
ここ数日の紅葉はいつになく鮮やかな気がする。


もうここには長くは居ないよって
思うようになったから
私の気持が美しく見させてるのか。
いや、でもほんとに綺麗なんだよ。
朝陽に午後の陽に照らされたモミジを
玄関の硝子越しに見るたび
キレイだなぁ、と思う。

なんでこんなに綺麗なの?
なんなの?
とまで思う。








今年はミカンも当たり年で。
我が家のミカン史上一番だねって思うほど美味しい。
果汁も甘みも申し分なく。

もうほんと、ミカンの実を取る作業もシンドイんだけど
たわわに実ってるのを放っても置けないし。
来年はシルバー人材センターにでも頼もうかなぁ
とか考えて
うん、まあ、もう一年二年は
なんとなく住んでるかもしれないしなぁとか思い。

モミジとミカンとに思い切り後ろ髪ひかれてしまう。

私がここを手放したら
モミジもミカンも伐られるしなぁ。
彼ら、わかってて引き留めに来てる?
…は馬鹿な妄想だけど。


いや、人生って、なんだろ。
生れてくる時はなぁ~んにも考えてなかったのに。
なんかメンドクサイもんだわね。



2024年12月21日土曜日

清々しい部屋





「 清々 」という漢字を
「すがすが」と「せいせい」と
自然に読み分けてるんだよね、我々は。




表を張り替えられて帰ってきた
畳がとても清々しい。





前に畳に手を入れたのは15年前。
ここに同居することになって
父が畳を替えてくれた。
その時は、地元の畳屋さんに頼んで
畳床から手を入れてもらったんだったと思う。

15年経ってるからもしかしたら
表替えだけでは済まないかもなぁと思ったけど
業者さんに来てもらって見てもらったら
畳床は良いもの使ってるから
まだ持ちますよ、とのことだった。
そういえば、お父さんはシブチンだったけど
こういうことはケチらなかったっけな。


対して娘のほうは
なるべく安く上げようとしています。


畳表のイ草にもランクがあって
見本を持ってきてくれたんだけど
最初から
もうここには長くは住まないので、と相談し
普及品でお願いした。
イ草にも国産と中国産とがあって
国産のほうが香りがいいですとのことだったので
国産の畳表を頼んだ。
1,000円しか違わなかったし。

正直、期待はしてなかった。
ともかくうっすらした気配を一掃したかったから
表、引っぺがしてくれればそれでいい
くらいに思ってたし。



業者さんが帰って
6枚の畳を乾拭きしてたら
あ、ちゃんとイ草の匂いするねぇ、と気づいた。

時間が経つほど
すんとした青く枯れたイ草の匂いが強く立った。
二階から廊下に出て階段を下りながら匂う。



彼女がいる間
6畳間だけではなく家全体が
老いた人のいる家特有の匂いがしていて
それも、気持を沈ませてた。
もちろん、私の掃除が行き届いてないってのもあったけど。
廊下や台所や玄関をいくら掃いても拭いても
なんかもうこの家無理かもって悲しくなってた。

階下の部屋の家財一切合切処分して
この半月ずっと窓開け放して空気洗って
畳、襖を替えて
やっと、やっと、やっと。




畳、替えてもらって良かった。
階段を下りながら
廊下歩きながら台所に立ちながら
イ草の匂いを聞いている。

清々と、清々しい。







襖も薄く地模様は入っているけど
無地に近いもの。
本来は廊下側に張るもの。
室内側は引手帯模様くらい張ろうかとも思ったけど
なにもなくていい、なにもないほうがいいと思った。

清々した。




2024年12月16日月曜日

空っぽ






表替えのために畳が持ち出された部屋は
すっからかんの空っぽ。









階下の部屋の
襖の張替えと畳替えをした。



先週、この部屋に残されていたモノを
すべて処分してもらって
それですっきりすると思ってたのだけれど。



タバコの煙で汚された襖は絶対替えるって
決めてた。
それですむかなぁ、と思ってたんだけど。
ベッドやホットカーペットや
あれやこれや
持ち出してもらって掃除もしてもらったんだけど。

畳が薄っすらと
誰かが座ってた気配に染まってて。
空っぽになった六畳間に入るたびにため息がでた。
まだ、ここにいるの、って。



そうだよ、ここにぺたんと座って
日がな一日、ぼぉんやりテレビ見てたっけな。
この部屋にベッドを入れてからだから
10年くらいか。

正直に言ってしまうと
キモチワルイし
あ~やだやだやだやだって
おぞましくなる。



でも
この浅く窪んで色の変わった畳は
ひとがひとり、棲んだってことなんだな。

二階の部屋の
いま、この瞬間に私が座っている
このお尻の下の畳も
きっとおんなじなんだろう。


そういうもんだよな。


…と、他人事というか
距離置いたかのように考えて嫌悪感を希釈する。
希釈しようとしてみる。

無理だ。





この家の畳の部屋はなにか敷かないと
寒すぎて居られないので
新しいカーペットを買うつもりではいたけど
なにかで覆ってしまっても
一度見てしまったこのウンザリを
気にしないでは過ごせそうもなく。

襖の張替えを頼んだ業者に
畳の表替えも追加でお願いした。




畳を運び出されて
床板がむきだしになって
床下から上がって来る冷たい空気に洗われて
ここまでしてやっと。

やっと。

やっと、終われるかな。
疲れた。





2024年12月7日土曜日

竹箒の時間




 


家の前に散ったコブシの葉を掃く。
そんな季節になっていた。

いま、お向かいは空き家になっているのでそれほど気にしなくてよいのだけど。
道を掃こうと思う余裕がやっと生まれたかな。
9月から10月、11月は怒涛のようで、水遣りも疎かになって鉢植えの秋海棠を枯らしてしまったりしてた。自分自身が枯れてしまいそうな日々だった。



今日は三度、竹箒を手に道に出た。
掃いてる間も、コブシは葉を落としてくるのだけど、いいの。
大好きな時間だから。







あまり注目されないけれど、コブシもなかなか綺麗に黄葉する。
もう一週間もすれば、すべて散って、落ち葉掃きの時間も終わる。


午後の低い陽射しに輝く樹を見上げながら思う。
わたしはあと何回、この枯葉を掃くんだろう、と。


数年のうちに、たぶん、この家を手放す。
たぶん。
そうしようと考えている。



2024年12月1日日曜日

頑張った。




いつかの空。

 


12月になってしまった。

ストレスフルな3ヵ月を過ごした。
ほんとに、ほとほと疲れた。


先週、階下の人を老人施設に送った。
「階下の人」は「施設の人」になった。

私が保証人になっているので、残念ながら完全に縁が切れたわけではないが、同居を解消できて心底ほっとしている。なんでこんなに長い間、同じ屋根の下で暮らしてしまったんだろう。育ててもらったわけでもない、父の後妻さんというだけのひとと。



ああ、清々した。


と、そう思ってみるけど、その言葉ほどには清々してなんかいない。
なんだか、とてもとても草臥れて脱力している。


3月からプレ介護?介護モドキが始まってから、施設に入所させるまでのこと、書いておきたいけど書くと追体験する感じになるしな。まあ、追々。


2024年9月28日土曜日

暮れてゆく






9月27日午後5時39分
八高線の車窓からの、空。

秋も始まっていて
やわらかく寂しくて
iPodの声に気持を逃す。




ナイト・クルージング
(クラムボン)
夜の散歩をしないかね
(RCサクセション)
アスファルト
(奇妙礼太郎)
大停電の夜に
(CERO)
完全な夜の作り方
(Sunny Day Service)
*
メロディ
(AJICO)
ひとりぼっちの人工衛星
(ゆらゆら帝国)
多摩蘭坂
(ハナレグミ)




日が暮れる。
家路につく高校生たちの
無口な後姿を眺める。


このまま夜に隠れたいね。
夜はやさしいから。
たぶん、ね。




2024年8月17日土曜日

台風と百日紅

 




台風7号が東京に接近するという予報の朝
夜の間にもそこそこ雨が降ったようで
庭の百日紅の枝が
雨の重さでたわんでいた。

枝先のたくさんの蕾が雨を含んで
かなりの重さになっていて
風が強くなれば
細い枝は折れてしまう。

朝、ちょうど雨が小康状態だったので
庭へ降りて百日紅をベランダの支柱に固定する。
まだひょろっとした幹も煽られて折れかねないので
麻縄で緩く縛る。2か所。
たわんでいる枝を3本、立てて固定。
枝を引き寄せるときに
葉や蕾が蓄えた雨水が降ってきて
あさからずぶ濡れ。

庭に下した百日紅、ここ何年かで
花をたくさん咲かせてくれるようになったのだけど
樹形がひょろりとしているので
台風には弱い。



台風7号
予報より風が強くなくて助かった。

今朝、百日紅の蕾がほころんでいた。
良かった。
保定縄、ほどこう。




昨日は
涼しい、ってこういう肌感覚だったっけ
忘れてたよ、というような気温で
雨は時折強くなったけれど
風がなかったので窓を開けて過ごした。


やっぱり今年の暑さは過酷で
大きく育っていたチョウセンゴミシの葉が
だいぶ枯れてしまった。
ちりちりに灼けた葉を蔓ごと刈り込んだ。


ローズマリーやタイムも
ちょっと草臥れてるみたいな色をしている。
ミントはどこまでも元気だけど。




5月に
川縁からひと枝切って差し穂していた
スイカズラが根付いて新芽を伸ばしてきた。
こういうの、嬉しい。




鉢に植え替えよう。


来年、再来年かな
初夏のハニーサックルの幸せな匂いをかげるのは。





2024年8月16日金曜日

「トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー」








20年か、いや、もっと前だね。
二度目の千年紀が始まる直前だったと思うから。

小さなネットコミュニティの登録を誘われて始めてみたことがあった。
町の育成ゲームだったんだと思う。アバターが出始めたころ。
充分とは言えない選択肢の中から自分のアバターを造って町に住むと、通りがかりの住民から話しかけられる。吹き出しの中の「こんにちは」、3頭身のアバター、ぎこちない動き。
馬鹿々々しくって2、3回ログインしてそれきり放置した。

いまでもそうだけれども、思いっきり“文字の人”なので、あのキャラクターにアイデンティファイするのは無理だったな。

私のゲーム体験はそんな程度で、FFもポケモンも、あつ森もプレイしようと思ったこともなく興味もないんだけど、それが障害になることなく、この「トゥモロー…」を堪能したよ。




永遠の子供、サム。
鼻っ柱の強いお姫様、セイディ。
賢明な守護者、マークス。

彼らの物語が好きだ。
ページの中に時々出てくる3つの点であらわされる数学記号が印象的で。
「∵」なぜならば、と「∴」ゆえに。

なぜならばサム、セイディ、マークスゆえに。

三つの点で表される、三人ならではの関係性。
そんな風に読んだ。




本のタイトルにもなっているTomorrow Speech。

Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow
Creeps in this petty pace from day to day
To the last syllable of recorded time;

人生最後の瞬間をめざして歩むにはなにが必要だろう。

3人の物語。
それから、3人が作りあげるゲーム――という物語。

生きてゆくにはなにか、物語が必要なんだと思う。
それとはっきり意識するかどうかは別にして。
実人生では、ゲームのように何度もリセットして再スタートすることはできないけれど、だからこそ、自身のリアルからほんの少しはみ出した「こう生きたい」「こう生きられたら」と思う物語の端っこを夢想したい。

マークスを失って、セイディと疎遠になって、セイディの存在にサムが感じたのは「希望」で。
微かでも、遠くても、希望が感じられるから明日も、明日も、また明日も、、重い足を前に出すことができる。だから物語を最後まで繰ることができる。最後の最後に、希望が置かれてなかったとしても、最後の瞬間に至るまではひとは希望を見るんだろうと思う。
(そうだったらいいな)




ゲームというものが生まれるずっと以前の人が小説を書いたように、70年代に生まれてゲームという言葉を持っていたサムは「いちご」をプログラムすることで物語った。
ゲームの変遷には疎いけれど、ゲームというのが“世界を作り上げる”もので、ゲームというものがこんな物語を生むほどひとを育てる文化になってたのか、と80年代からの40年をちょっと見直すような気持にもなった。

アバターに馴染めなかった私だけど、テキストオンリーではあるけれど四半世紀書き続けて、実人生からすこしズレた、自分で取捨選択した物語をアップロードし続けてきたような気もするし。やっぱり、物語ることは大事なんだな、と。他人様にプレイしてもらえる(読んでもらえる)レベルかどうかはさておき。






散りばめられたアイテム(?)も結構好きだった。

ローリングストーンズ「ルビー・チューズディ」
ジョニ・ミッチェル「リヴァー」

根津神社、涼しくなったら行こうかな。
完全無欠、ひとつの瑕疵もないマークス、出来過ぎ。ゆえに、まあ、そうなるか。
でも、ページ繰りながら「えーやめて、やめて、マークス死なないで」って思ったわw




Thanks,Hanya.

2024年8月12日月曜日

Hiraeth <ヒラエス>





 Hiraeth/ヒラエス ウェールズ語

帰ることができない場所
失った場所や永遠に存在しない場所への
郷愁と哀切の気持ち




郷愁とか望郷とか追憶とかともすこし違うのだろう、日本語で当てられる言葉がないというHiraethという“想い”が胸の中に住み着いている。


   *


―――追憶は禁じられている

この一行が繰り返し心に浮かんでくる。
「やがてヒトに与えられた時が満ちて…」の舞台、ラグランジュ宇宙都市の法だ。
この一行で、そこがどんな世界かわかる気がして。苦しくなる。


   *


「大阪」は岸政彦と柴崎友香の生活史で、Hiraethの書だ。
読みはじめ、気分が悪くなるくらいに嫌な予感がした。
大阪の街など縁もゆかりもなく土地勘もまったくないのに、読み進めたら思い出の封印がとかれて苦い思いに飲まれそうな気がして。


   *


「断片的なものの社会学」を読み直している。
出版されたときに図書館で借りたのだけど、たぶん予約がついていたので斜め読みしてしまったみたいで、こまごまと心残りで。
続けて岸政彦をあれこれ読んでいるのだけれど、“生活史”というものの重さを、今の私は受け止められない。


   *


―――ひとりひとりの無名の人間のなかの壮大な生老病死の劇

宮本輝が37年かけて書き上げた「流転の海」の最終巻を読んだ。
松坂熊吾という魅力的な男の、これもまた生活史。
原稿用紙7,000枚を費やして描かれる、結局ひとはすべてを失って死ぬという事実。


   *


橋本治の「草薙の剣」も柳美里の「JR上野駅公園口」も生活史なんだと思う。
社会学者がフィールドワークして書くか、小説家が創作するか。
描かれている人生の根本に大きな違いはない。
結局は、生まれて、生きて、なにもかも失いつつ、死ぬ。無名のまま。


   *


なんでこんな無名の人生を読み漁っているんだろう、私は。
消化しきれず胃もたれしながら赤の他人の生活史なんぞ、なんで読んでるんだろ。

以前は、小説だろうが社会学だろうが、そこで語られる人生は所詮“他人事”だった。
いまは、なにを読んでも生々しくて重い。ひとが生きて蠢いている、それが街に溢れているというのがキモチワルイ。
結局、すべて失って、死んでいくだけなのに。

私自身が歳を取ったからだ。だから他人事に思えなくなった。
この先もう、生老病死の、死くらいしかないと思うからだ。


   *


失っていくのが、人生というものであるらしい。
そして、手に入れたものより、失ったもののほうがそのひとらしさを色濃く反映するもののようだ。
失ったもの、手に入らなかったもので、ひとは(私は)出来上がっている。
出来上がっている、にもかかわらず、失っているのだから実体はなくて、ひとの(私の)中は空っぽだ。


Hiraethというのは、どこで失くしたんだろうと考えても考えても思い出せない落とし物を探すような気持かもしれない。そして、ほんとは探し物がなんなのかすら思い出せないのだ。
空っぽの私の中を吹き抜けるひそやかな風を感じて心細さに振り向くような、そんな感覚かもしれない。





2024年8月9日金曜日

I miss you.





コメダ珈琲で
フィッシュバーガー頬張りながら
鼻すすりあげて
泣いてたのは私です、こんばんは。



ランチしながらSNS開いたら
前日のポストにリプがいくつかついてて。



療養に入ってから
チバはひとことも言葉を残さず
逝ってしまって

ただのファンには
知りようもないことだけど
どんなふうに最期の日々を過ごしたのかなって
どうしても考えちゃうな



そんな内容のポストに
みんなおなじように思ってたんだろうね。
フォロワーでもないひとからも
リプがあって
それ読んで、返事を書いてたら
涙がこぼれて仕方なかった。

ひとり掛けのカウンター席で
両脇に衝立があったので
まあ、そう怪しまれることもなく
グスグスして
I miss you.に耽溺して過ごした。

なんですかね
日本語の恋しいとか悲しいとか寂しいより
I miss you.
という語感がぴったりなんだけど。

まあ、誤用しててもいいや。







というような日々で
相変わらず彼の不在が心にしみるんだけど。

実生活の閉塞感や
終末感しかないニッポンの状況に
ストレスしかないのに
そのことを吐き出すすべがみつからないので
さらりと感情を涙にしてくれる
チバを想う時間は
たぶん、心理的な置き換えというのか
救いになってるんだと思う。






だけどやっぱり
ライブの声が聴きたいなぁ。




2024年7月30日火曜日

長く熱い7月






元気なのはやっぱりタマリンド。
例年、窓越しに眺めて癒されているんだけど
今年は窓越しに熱が来るので
昼前から遮光遮熱カーテンが開けられない。

深夜0時で29度とか異常すぎる。
24時間エアコンフル稼働。

観測史上最高気温を連日たたき出す昼日中に
通勤しなくてよいのは良かったけど
熱暑のロックダウンで
家に閉じ込められてる感じ
コロナのステイホームより息苦しい。

なんか、火星あたりのコロニーに住まわされて
慣れない環境にダメージ受けてるようなイメージ。
快適な宇宙服を与えてほしいぞ。




あ、映画「オデッセイ」観た。
アンディ・ウィアーの「火星の人」読もうと思ってたら
アマプラにあったので映画を。

マット・デイモンの安定感たるやw
知恵とスキルと折れない心。
「プロジェクト・へイル・メアリー」の主人公同様、
宇宙に出てゆくのに不可欠な資質だわね。
手に汗握ることなくすすむ宇宙サバイバル。
面白かった。こういうのも必要だな。
いい意味で現実逃避、気分転換。
放っておくと暗い物語ばかり選んじゃうからね。


*


PCを買い替えた。
タブを切り替えたり
なんでもない文字入力にさえ
時間がかかって、さすがに替え時。

セットアップはサクッとすんで
トップ画面をバンクロのふたりの写真にしたら
自分のものになった気がしてきて落ち着く。
あとはぽちぽちとカスタマイズ。

前回同様、音楽データの移行をどうしたものかと悩むけど
旧PCからの移し替えは、もういいや。
音楽アプリ、どうしよう。
あ、光学ドライブをなにか買わなきゃ。
Blu-rayでしか観られないものがある。




メンタルクリニックで処方された眠剤デエビゴ。
0時過ぎに飲んで寝たら
妙にはっきりした夢を見て4時前に目覚める。
内容的には悪夢というほどではないけど
鮮明すぎて覚醒して疲れてる。
もう一度寝て、7時過ぎにまた
リアルな夢を見て覚醒。

日を置いて、2錠の処方を1錠にして寝たけど
やっぱり夢疲れしてしまう。
睡眠の質を高めます、って嘘じゃん。

それっきり飲んでない。

もう一種類のブロマゼパム。
不安や緊張を和らげるってことで朝晩1錠づつ。
なんとなく不安が来そうなときに
頓服的に飲んでみたんだけど効いているのか
よくわからない。

プラセボ的に持っててもいいような気もするけど
クリニック行くのがめんどくさい。

もともと
話をして楽になるという性格ではないので。
吐き出すなら、ここに書くほうがいいかな。

なかなか書けないんだけど。




はやく夏終わってほしい。



2024年7月4日木曜日

IKEAで涼む。

 



IKEAランチ。

北欧?スウェーデン?IKEA?といえば
ミートボールでしょ。
知らんけど。

日本では“ミートボール”という料理を
メニューで見た記憶ない、ような?
なんとなくお弁当用の冷凍食品のイメージで。

IKEAのをはじめて食べてみたけど
普通に美味しかったです。

ところが。
これは“ミートボール”じゃなかった。
料理名なんだったっけ?とIKEAのHPをいま見て知った。
これ「プラントボール」でした。


お肉好きも満足のプラントボール!
植物由来の原料だけでイケアのミートボールを再現しました。
食感はまさにお肉そのもの、環境にも優しいイチオシ商品です。


だそうです。
ミートだと思って食べてたよw
肉感しっかりあったし。
脂っこくなくて悪くないかも。
とか思いながら完食してたわ。

ああ、そういえばオーダーの時
ちゃんと「プラントボールお願いします」って
言ったわ、言ったw
カウンターの上のメニューの写真みて
考えずにオーダーしてた。
マッシュポテトに立ってる葉っぱの旗が
プラントボールの印でした。

マッシュポテトもグレイビーソースも
アクセントのベリーソースも美味しかったっす。

ビスクスープ、クロワッサン、マンゴー杏仁。
ドリンクバーからエルダーフラワー、氷抜き。
これで1,700円くらいかな。

レストランエリア広いし
平日午後はひとも少なめだったのでのんびりしました。





IKEAで買うものってキッチン小物くらいで。
実店舗だと軽い布モノばかりなので
Scan & Pay を使うんだけど
スキャンしてそのままマイバッグに入れて良いんだけど
なんとなく落ち着かないよね。

で、優先レジで決済する時に
いつもなにかしらミスって
最初からやり直してくださいになってしまうし
Scan & Pay がスマートな時短になってない、という。

まあ、慣れとかないと。
いや、慣れるほど行かないけど。






しかしさ、たかだか1枚48円くらいの布巾に
なんでこんなタグが2枚も3枚も縫い付けてあるんだろうね。



2024年6月30日日曜日

どんより6月

 


枇杷たわわ。

枇杷は女のひとの果実、という気がする。
隠し事や懊悩がつまっているような。

6月も終わる。




最近、妙にリアルな夢を見る。
今朝も、退職した職場のひとたちが出てきて、なぜかトラブルに立ち会う羽目になって、相変わらずマニュアルをクリアしないと終わらない職場だなぁと、ウンザリしている夢。

もう、退職して一年経つのに。

どうもね、おうし座はイヤなことを消化するのに時間かかるらしい。
反芻動物だから?こじつけでしょーと思うけど、ん~確かにいつまでも悶々としちゃうし、不意に思い出すと何十年前のことでも当時のままのイヤな気持が甦るしなぁ。
おうし座って言ってもヒトなので胃は一個しかないから消化不良起こしてんのか。毛玉みたいにペって吐き出して忘れたい。

今日の天気も辛すぎる。
そんなに気温高くないのにどんよりと湿度こもってて、大気がPMSなんじゃないのって思う。
ああ、鬱陶しいなぁ。
プール入りたい。大きな水に潜水して水圧で気圧とバランスとりたい。
どこかに潜水可のプールはないか。

眠い。。。

匂いのイメージは上書きできない

 


セイヨウニンジンボク
葉に触れると菊のような匂いがする。




以前、家庭用の殺虫剤に添加されている匂いがライラックだって気が付いてから、その匂いがとても苦手になった。
ライラックはルームフレグランスなどでよく使われてるんだけど、その香りがすると息止めてしまう。脳内で殺虫剤とイコールになってしまっているので無理。
ライラックの花樹は美しいし、たぶん生の花を嗅いだら違うのかもしれないけれど。

香りって、ほんとうに生理の奥に届いて留まるんだと思う。
一度イメージがついてしまうと、上書きできないんだよなぁ。


   *


最近、洗濯洗剤を無香料のものに変えた。

洗濯洗剤には特にこだわりもなくて、極々普通の量販品を使ってたんだけど。
香りも、これと言って特徴のない薄いフローラルで、何の匂いとも言えないようなものだったんだけどね。

2階の自分の部屋にいた時、ふっと鼻をかすめた匂いに「ん?お母さん?」と思って。
なんでだろう、って。階下のひとが2階に上がってくることなんかないし、私の部屋に入ったこともすくなくとも13年ないと思うのに。
つまりね、洗濯洗剤の匂いだったの。洗濯自体は別々だけど同じ洗剤使ってるからね。
彼女は洗剤を結構使うみたいで、そばにいると服から香ってた。まめに洗濯してるんだからそれは良いことなんだけど。
でも、その洗剤の匂い、イコール階下のひとの匂いになってしまってたみたいで。
自室でふいと香ったのは、私自身が着ているシャツからだった。

気づいて、生理的な嫌悪感が湧いてしまった。

階下のひとは後期高齢者だし、以前ほど身ぎれいにできなくなってるから年寄り特有の匂いはある。でも、それはいいの。好ましくはないけれど、そういうもんだと思うから。
でも、洗剤の匂いは、すごく嫌だと思った。自分の身に着けている物から匂うの、いやだ。

もう何年も同じ洗剤使ってきてるんだから、いままでだって“同じ匂い”を嗅いで暮らしてたはずなんだよね。でも、それに気づくくらい、いまの私は彼女を拒否してる。
暮らしの匂いを我慢したらものすごいストレスだから、同じ匂いを纏わずにすむように、無香料の洗剤に変えた。

使ってた洗剤の詰め替え用ストックがまだ結構あるので、階下のひとにはそれをそのまま使わせてる。洗濯機は一台なので、洗剤の使い分けで大丈夫なのか判らなかったけど、とりあえず自分の服やタオルから薄いフローラルは匂ってこなくなった。ほっとした。


   *


いまね、自分がすごくナーバスになってる自覚、ある。
こんなのも、きっと今だけ、って思わなくもない。
だけど、匂いの、イメージを喚起する力ってすごいと思った。
好悪の感情にダイレクトに働く。で、コントロールができない。
映画「パフューム」を思い出してすごくリアルに感じる。



2024年6月24日月曜日

読書記録



本は読めているんだけれど
読み終えた途端に
いや、ページを繰る端から
内容が流れ去ってしまってる気がするなぁ。

ああ、とか
ほぉ、とか
いいなぁ、とか
そっかぁ、とか

ちゃんといろいろ感じて読んでるんだけど
心の奥に定着しない。
ような。

ま、いっか。



青木冨貴子とピート・ハミルが夫婦だって知ったのは
911のあと。
2001年の秋にでたルポ「目撃 アメリカ崩壊」を読んで。
この著者が青木冨貴子だった。
学生の頃に読んだ「ライカでグッドバイ」の著者でもあったのね。

ロバート・キャパの「ちょっとピンぼけ」のあと
戦争ジャーナリズムの本がいろいろ出版されて
それで読んだのかな。
「地雷を踏んだらサヨウナラ」なんてのもあったな。
いや、も内容全然覚えてないわ。
亡くなった従軍カメラマンの名前さえすぐ出てこない。
読んだの何十年も前だしな。

あ、「アローン・アゲイン」について何も書くことがない。
ない、というかごめん忘却の彼方です。
同著者の本を3冊も読んでるっていうのに
なんでか印象がうすいなぁ。




アメリカの爺はタフだな、と。
いや、キャラクターも文体も
あと過剰にドラマチックじゃないとこも
かなり好きだし、良い感じで読んだんだけど…。





SNS発の書物。
国道なのに道なき道を行く感じとか
鄙びにこだわる旅の風情とか
好きです。

でも、SNSのタイムラインに上がってくる
頻度と密度で流し見るのがちょうどいいかな。

ネット上で読むものと
紙の本で読むものとは
なにかが根本的に違う気がするんだよなぁ。
なんだろ。

あ、鄙び宿に伊勢の星出館がでてて
懐かしかった。
星出館行ったのいつだっけ。
2016年か。旅人聴きに行ったときだ。
8年前。
8年って、どんな長さ?
なに?なんか、よくわからない。


ほぼほぼ読んだ本に言及できない読書記録。


 

2024年6月20日木曜日

「やがてヒトに与えられた時が満ちて・・・」








星が見える。これは驚くべきことだ。
この奇跡が可能になるために、いったいいくつの宇宙的偶然が必要だったか、
改めて数えてみよう。

星が見えるには、まずもって空が晴れている必要がある。
地球の空は曇ることもあるが、しかし待てば晴れる。
金星のように何万年待っても厚い雲に覆われたままの空とは違う。
金星に知性ある生き物がいたとしても、天文学は発達しなかっただろう。

地球の空が晴れる前に宇宙そのものが晴れている必要があった。
最初期の混沌状態から物質と光が分かれ、その光が伝播できるだけの空間が生じる。
宇宙の晴れ上がりだ。そして星が生まれる。
星の光が何年か、何千年か、何億年かかけて地球に届く。

そしてそこにヒトがいる。
光を感知する器官と、その意味を考えられる脳、
宇宙の全容を想像するための知識を持ったヒトという生物の一個体、
つまりぼく、がそこに立って、星空を見上げている。


そういう偶然の連鎖の果てに、
ぼくが星を見てきみたちを思うということが可能になった。
それが偶然なのか必然なのかという議論もあるだろう。
ともかくヒトは星を見ることができるし、
星の世界へきみたちを送り出すこともできた。

「一九七七年に旅立った二人への手紙」より







池澤夏樹をとても好きなのだけど、読んでいない作品のほうが多いかもしれない。
なんか、好きすぎて手を出せない、みたいな。
この2007年発行のlyricalな小品集もノーチェックで、たまたま入った古本屋で見つけて、手に取って、開いた最初のページの「星が見える。これは驚くべきことだ」の1行に降参した。

きみたち、というのは、1977年に打ち上げられて今も旅を続けている2機の探査機ボイジャーのこと。

私たちは、宇宙をゆく無人探査機をなぜ擬人化してしまうんだろうね。
躯体からアンテナやら電池パネルやら突き出した、ただの無骨な金属の塊なのに。
JAXAが飛ばした惑星探査機「はやぶさ」が帰還して大気圏に突入して燃え尽きた時には、鼻の奥がツンっとしたりして。
池澤夏樹は1994年にフリーマン・ダイソンに会った時に、ボイジャーに「愛すると言いたい気持」を抱いていることを告白し、ダイソンから「私も彼らに対して同じように感じている」と返事をもらったそうだ。星の世界へ送り出される、愛おしいモノ。なんだろうね、この感傷は。

ヒトが、ホモ・サピエンス・サピエンスが、宇宙の片隅でひとりぼっちだっていうのを、星を見ることで知ってしまったからなのかな。


「やがてヒトに与えられた時が満ちて・・・」は、種としてのホモ・サピエンス・サピエンスの時間が尽きた後にヒトはどこへ行くのか、どこかに行けるのか、たどり着くと言える場所はあるのか、、、そんな寄る辺ないサミシサが創造させた物語だ。

宇宙に浮かぶ植民都市では、追憶は禁じられている。
地球との繋がりは途絶え、子どもが生まれることは稀で、衣食住足りて希望がない。
追憶さえも禁じられて、ひとは生きていけるのかな。寂しい淋しいさみしいねぇ。


冒頭には6ページほどのショート・ストーリーが四編載っているのだけど、「ボイジャーへ」、「明日宇宙へ行く自分へ」、「いるかどうかもわからないあなたへ」、「終末論研究者が死に際に」語りかけている。
誰かに、自分以外の誰かに、語りかけずにはいられない。それほどに孤独でサビシイんだね。我々、ホモ・サピエンス・サピエンスは。

そりゃぁ、誰かに出会いたい思いを託して、途方もない時間の彼方へ送り出される探査機が愛おしくないはずがないわね。

160ページくらいしかない薄い本なんだけど、これも一気に読み終えたくなくて、一編一編、ゆっくりと何日もかけて、間に他の本もはさんで、読んだ。







周回する役目を終えて地球と別れを告げる
人工衛星のキモチ。愛おしい。



 検索して知った惑星探査機ボイジャーの現状。
1号機も2号機も太陽系の外に出て飛び続けている。2024年現在、まだ通信は繋がっているけれども2025年頃には原子力電池が尽きて稼働が停止するらしい。
その後も、慣性の法則で飛び続ける。
ほんとうに、ひとりぼっちになる。話しかける相手もいない。


どこまでいくのかな。
どこかの星の重力に捕まってしまうのかな、墜落して燃え尽きてしまうかもしれないね。
もしかしたらもしかしたら。
百億の偶然が重なった奇跡の果てに、誰かに拾われることもあるのかな。
その誰かは、チャック・ベリーを聞いてイカシテルって思うだろうか。

そんな奇跡が起こったとしても、きっとその頃にはホモ・サピエンス・サピエンスは存在しないし、そんな奇跡を知りようもない。


  *


星が見える。
そんな奇跡をいま味わおう。