Hiraeth/ヒラエス ウェールズ語
帰ることができない場所
失った場所や永遠に存在しない場所への
郷愁と哀切の気持ち
郷愁とか望郷とか追憶とかともすこし違うのだろう、日本語で当てられる言葉がないというHiraethという“想い”が胸の中に住み着いている。
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―――追憶は禁じられている
この一行が繰り返し心に浮かんでくる。
「やがてヒトに与えられた時が満ちて…」の舞台、ラグランジュ宇宙都市の法だ。
この一行で、そこがどんな世界かわかる気がして。苦しくなる。
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「大阪」は岸政彦と柴崎友香の生活史で、Hiraethの書だ。
読みはじめ、気分が悪くなるくらいに嫌な予感がした。
大阪の街など縁もゆかりもなく土地勘もまったくないのに、読み進めたら思い出の封印がとかれて苦い思いに飲まれそうな気がして。
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「断片的なものの社会学」を読み直している。
出版されたときに図書館で借りたのだけど、たぶん予約がついていたので斜め読みしてしまったみたいで、こまごまと心残りで。
続けて岸政彦をあれこれ読んでいるのだけれど、“生活史”というものの重さを、今の私は受け止められない。
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―――ひとりひとりの無名の人間のなかの壮大な生老病死の劇
宮本輝が37年かけて書き上げた「流転の海」の最終巻を読んだ。
松坂熊吾という魅力的な男の、これもまた生活史。
原稿用紙7,000枚を費やして描かれる、結局ひとはすべてを失って死ぬという事実。
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橋本治の「草薙の剣」も柳美里の「JR上野駅公園口」も生活史なんだと思う。
社会学者がフィールドワークして書くか、小説家が創作するか。
描かれている人生の根本に大きな違いはない。
結局は、生まれて、生きて、なにもかも失いつつ、死ぬ。無名のまま。
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なんでこんな無名の人生を読み漁っているんだろう、私は。
消化しきれず胃もたれしながら赤の他人の生活史なんぞ、なんで読んでるんだろ。
以前は、小説だろうが社会学だろうが、そこで語られる人生は所詮“他人事”だった。
いまは、なにを読んでも生々しくて重い。ひとが生きて蠢いている、それが街に溢れているというのがキモチワルイ。
結局、すべて失って、死んでいくだけなのに。
私自身が歳を取ったからだ。だから他人事に思えなくなった。
この先もう、生老病死の、死くらいしかないと思うからだ。
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失っていくのが、人生というものであるらしい。
そして、手に入れたものより、失ったもののほうがそのひとらしさを色濃く反映するもののようだ。
失ったもの、手に入らなかったもので、ひとは(私は)出来上がっている。
出来上がっている、にもかかわらず、失っているのだから実体はなくて、ひとの(私の)中は空っぽだ。
Hiraethというのは、どこで失くしたんだろうと考えても考えても思い出せない落とし物を探すような気持かもしれない。そして、ほんとは探し物がなんなのかすら思い出せないのだ。
空っぽの私の中を吹き抜けるひそやかな風を感じて心細さに振り向くような、そんな感覚かもしれない。
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