石垣りん。
知っているのは、詩人だというこだけ。
ちくま文庫から出た新版が
図書館の「新しくはいった本」の棚に並んでいて
表紙とタイトルに惹かれて借りてきたエッセイ。
1920年(大正9年)から 2004年(平成16年)まで84年を生きたひと。
高等小学校を卒業して、14歳で銀行の事務見習いとして働く。
父、弟妹の生活をささえる。生涯独身。
ひたむきに、あたりまえに、生活して人生を送ったひと。
言葉を紡ぐことに喜びを覚えて、詩を綴り、生活を記した。
彼女の生活は、まず、働くこと。
昭和9年、戦争の前に銀行に働き口を得られたことは
幸運であったかもしれないけれども
14歳の女子の職業的身分は「傭」で、雑用、小間使い的な立場。
いまでいえば非正規か、フルタイムのアルバイトか。
戦後に制度が大きく変わって社員となって
55歳の定年まで働き続けても、どこか報われない心持であったようで。
「男たちの既に得たものは、ほんとうに、すべてうらやむに足りるものなのか。
女のして来たことは、そんなにつまらないことだったのか」
という疑いを持ち続けていたと。
生きづらさとか、フェミ(この略し方キライだけど)といった
感覚?概念?自認の仕方?そんなものもない時代だから
ひとつも声高なところはないけれども
ただ生活し人生を送るだけなのに、女の人の上には
(今だからこう表現できる)ガラスの天井というものが
うんとうんと低いところに設えられていたんだろうなと思う。
それでも、ただただ働いて生活し生きてきたんだよね、女の人たち。
男の人たちも、だけど。
最近、岸政彦のポッドキャストを聴いていて
投稿メールを笑いながら、しんみりしながら読み上げて
なんと言っていいかわからんなぁ、という感慨を込めて
「人生やなぁ」と言うんだけど。
岸政彦が聞き書きするまでもなく
言葉を持った人たちはこうやって「生活史」を
詩やエッセイの形で静かに綴って残している。
生活史的なものでも、ノンフィクション、ドキュメンタリーでも
気がつけば生きてきたひとたちの“人生”を覗くことになるんだけど
人生やなぁ、的な物語に、なにかウンザリしてたりもする。
そういうものを私が嗜好しているにもかかわらず。
橋本治の「草薙剣」や柳美里の「JR上野駅公園口」を読んだ時の
消化しきれない感情に胸焼けするような感覚。
最近は、ほんと人生にお腹いっぱい。
なら読まんとき、って感じなんだけどさ。
でも、日々の暮らしを言葉にしながら過ごしてきたひとの
なんでもない感慨に、惹かれて読み進んでしまう。
夏の日、梅の木肌に手を置いて
「また来年の花に会わせてください」とささやいた
私の願いを聞き届けてくれたのは誰でしょう。
春は来るのではない
生きてこちらが春に到達するのだという感じ方は
残念ながら年のせいかもわかりません。
石垣りん「夜の太鼓」 P107
「生きてこちらが春に到達するのだ」
ああ……、そうだなぁと思う。
たぶん、きっと年のせいだと思います。
春よ来い!などと威勢よくはとても思えないのですよ。
とぼとぼと歩いて(足、重い)どこかに到達するしかない。
強い思いで目指しているわけではないけれども(私の場合)
梅の花や青もみじやレモンの香は
人生やなぁの胸やけに効くので大事です。
