2023年9月5日火曜日

「追燈」






9月1日、東京大震災の日にネットに上がってきた。
読んだ。食道になにか詰まったような気分。
100年前になにが起きたのか。なにを、どんなことをしたのか。日本人が。
薄っすら知っていた。そう、薄っすら。ちゃんと知ろうとしてこなかった。
怖くて。

世田谷の土地勘のある場所でも虐殺が起こっていたこともSNSで知る。
慰霊碑が建てられているのだけれど、“慰霊”の内容と、近隣に住むひとびとの“語り”に、なにかが身体の中をひゅぅと抜けてゆく空恐ろしさがあって。。

隣の佐藤さんの爺さんが自分の祖父が、人殺しだとは考えたくなくて、語りはひそひそ声になり沈黙になる。それは、わかる、んだ。私も、咎められるのを恐れている。だから薄っすら以上には知ろうとしてこなかった。知らずにいることが潔白の証であるかのように思えるから。日本の、多くの人がそれなんだと思う。

だけど朝鮮人虐殺の追悼式の会場を取り巻いてヘイトスピーチする日本人を見てると恐怖がこみ上げてくる。災害時に、混乱に乗じて襲ってくるのは外国籍のひとたちじゃない、そこでおぞましい言葉を投げつける日本人たちだってよくわかる。私は、あなたたちが怖ろしい。
なぜ日本では、こんな明らかなヘイトすら違法行為として問答無用で裁けないのだろう。





100年前に東京で日本人がやったことは、80年前に中国大陸で日本軍がやったこととおんなじで、そのどっちも“なかったこと”にしたい。政府が「資料がない」と嘯くのも、私が知らずに済むならと思うのも同じことかもしれない。

なんで70年前に、まともな謝罪を行わなかったんだろう。なんで毎年毎年、なかったと言い張るの。おかげで(祖父の世代のせいにする)孫の代の私たちも顔を上げて近隣諸国の友人の目を見られない。どう謝ればいいかわからない。

ドイツの戦後教育を受けたひとびとが
「戦時下の犯罪行為に私は関わってはいなかったけれど、それでも私には二度と繰り返さないようにする責任がある」
そう顔を上げてはっきりと清々と言えることが羨ましい。

日本人には、差別者と後ろめたい人々しかいない。









メモ:



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