
お馴染みのリーズナブルなショップで見かけたジーンズ。
骨伝導イヤホン気になる。検討中。
でもほんとは、爆音でチバの声を飛ばせる個室が欲しい。
どっちにしろ、なんにしろ、どうやっても耳には悪い。
丘陵地の街路樹にサクランボ。
なんという桜だろう?
ソメイヨシノにサクランボがつかない理由
ソメイヨシノ × ソメイヨシノでは実はつかない。
でもソメイヨシノも結実しないわけではなくて、別の品種のS遺伝子型の違う桜の花粉で受粉すれば実はつくんだね。でも、その実の種から発芽したとしても、それはソメイヨシノではない交雑種であると。(ん?S遺伝子ってなんだ? と検索したらなんか難しい話がでてきたので棚上げ)
ソメイヨシノ × 別品種 の桜の実生子孫でいくつも新品種が生まれてるんだね。
ソトオリヒメって、見たことある。
一昨年かな。小金井公園の桜餅の樹を見に行って、散歩してたら柵で囲われた大きな桜が咲いていて衣通姫・ソトオリヒメと名札がついていた。wikiにあるとおりソメイヨシノより花は大きくて白っぽくて、透明感のある花姿は衣通姫という名があざといくらいよく似合ってた。
ソメイヨシノ × オオシマザクラ? ソメイヨシノが母エドヒガン × 父オオシマザクラだから、お祖父ちゃん似なのかな?けっこう大きな樹だったけど、樹齢何年くらいなんだろう。
桜って実生で花咲かすまで何年くらいかかるのかな?
こういう品種改良の情熱ってすごいなぁ。
交雑すればソメイヨシノも実をつけるんだとしては、あちこちにあるソメイヨシノで実を見たことないなぁと考えて、ソメイヨシノって桜のなかでかなり早く咲いて、他の品種が咲く頃には花は終わってるから自然受粉はタイミング的に難しいのかな。
新宿御苑の中の池の周りにはソメイヨシノ以外にも桜が何十種類も植わっていて、一斉に咲いてるからいくらでも交雑してそう。来年、花が終わった頃に実を見に行ってみようかな。実がついていたとして、こっそり持ち帰ったとしてもどんな花が咲くかまで見届けるのは無理だけど。
春の女王然と仰々しい桜花だけど、大騒ぎの後の実は素朴に愛らしい。
「フランシス・クリックとグレアム・ミンチンの研究によると、夢とは作用がまったくないメカニズムなどではなく、人類が進化を遂げる際の重要な鍵なのです。夢は記憶をコピーしますが、それよりも多くの時間をかけて忘却を助けます。夢とはつまり、昼間私たちが学習したことを強化することもありますが、生存を阻害するような記憶を抹消することもあるのです。長い生物の進化の過程において、夢は生存を抽象化する役割を果たしてきたわけです。夢から目覚めた生物はこうしてサバイバルする能力を得てきたのですよ」。ぼくはあの日、宗先生が言っていた言葉を思い出した。
「眠りの航路」呉明益
仕事に復帰する日が近くなって、夢見が悪い。
復帰前に間に合うように記憶の抹消を急いでいるんだろうか。
それならもっとひっそりとやってくれないものか。
画像は妙に鮮明で、感情はリアルで、むしろ無理やり思い出させられているような気さえするんだけど。
やれやれ。ふう。
気が付けば花の盛りが過ぎている。
ヒメウツギの白い花が色褪せて散りそびれていたので摘む。
ベランダのふた鉢、たくさん咲いてくれたので花ガラもいっぱい。雨に打たれる前に。
枝先のちいさな花を摘むのは手間だけれど、落ち葉掃きと一緒で無心になる。指先のちいさな花ガラだけを見ているうちになにも考えなくなって、心の余白も広がってゆく。萎れた花びらでも摘まれる枝先から植物の匂いが立ち上ってくる。深く吸う。
5月の下旬になるとサツキの手入れをしていた父を思い出す。盆栽のサツキは花ガラを摘む作業がマストで、ヒメコブシの木の下に座って小さな皐月鋏を使ってちまちまと時間をかけて花ガラを摘んでいた。小さい鉢のようでも全部摘み終わるとこんもりとピンク色の山ができていた。
サツキの鉢はいくつもあったので「これは今やらないと来年咲かないから大変なんだよ」と言ってたけど、言うほど苦ではなさそうだった。私はその頃はもちろん「面倒くさそー」としか思ってなかったけど。
いまは花ガラを摘むひとの心持ちがすこしはわかるような気がする。
行くところがない、とはなにがないってことなんだろう。
行けるところがない、行くべきところがない、行きたいところがない、それとも行きたいところへ行けない?
そのどれか?どれでもない?
行くところがない。行くところがない。行くところが…
詩人の言葉を弄びながら、これは哀しんでもいいのかな、でもなんだかイヤだなとか考えながら、野原に座ってアカツメクサを数えた。
映画「CONTROL」 2007年
AmazonPrimeに「イアン・カーティスの伝記映画」として出ていて、「 Love Will Tear Us Apart」 がどんなふうに流れるのかなぁと思い観る。
80年代に同僚がUKロックのお薦めとしてダビングしてくれたカセット(わぉ!)に入ってた一曲。当時、街にはイケイケなアメリカン・ヒットチューンが溢れていたと思うから、UKロックの舞い上がれない感じが面白かった。…と思う。ほかにどんな曲を入れてくれてたのかすっかり忘却の彼方なんだけど、この「 Love Will Tear Us Apart」 だけは印象に残ってて。このタイトル、日本人的にはなんか言い難いし、でも邦題もついてないみたいだからよく覚えてたなと思うんだけど。
暗い。
絶望する気力さえ奪われてそうに暗い歌。
何年か前にこの曲と再会して、ジョイ・ディヴィジョンやボーカルのイアン・カーティスのことを初めて知る。歌詞は聞き取れないし、手元に歌詞カードはなかったし、インターネットもなかったから、こんなひと筋の光もみつけられない歌とは思わなかったよね。うっかり口ずさんでなかったか不安(笑)
映画もね、当然暗い。
だけど多分、私はUKのこの暗さに惹かれるとこあるんだね。
ちなみに80年代ってこんな音楽が東京の街中で流れてた。これでもかってくらいキランキランだ。
あ、シンディ・ローパーは好きだよ、U2も。あ、スティングもクイーンも……って、あれ?結構好きなんじゃ??(笑)
「Love Will Tear Us Apart」
When routine bites hard
And ambitions are low
And resentment rides high
But emotions won't grow
And we're changing our ways, taking different roads
Then love, love will tear us apart again
Love, love will tear us apart again
Why is the bedroom so cold?
You've turned away on your side
Is my timing that flawed?
Our respect runs so dry
Yet there's still this appeal
That we've kept through our lives
But love, love will tear us apart again
Love, love will tear us apart again
You cry out in your sleep
All my failings exposed
And there's a taste in my mouth
As desperation takes hold
Just that something so good
Just can't function no more
Then love, love will tear us apart again
Love, love will tear us apart again
韓国の首都、ソウル。貧困層が住む最底辺の住宅「チョッパン」を取材する記者が苦心の末にたどり着いたのは、「見えない」富裕層による貧困ビジネスの実態だった―。チョッパン街住民の声、自身の貧困経験や徹底した調査をもとに、新自由主義がまかり通る社会に問いをつきつける迫真のルポ。
チョッパン(チョッ房):割れた部屋の意。本来あった部屋をいくつかに小さく分けて、一人、または二人が入れるように作っている。ホームレスになる前のぎりぎりの住居。
チョッパン街:ソウルの中心にある古くからのものは3平方メートル前後の小さな部屋で、保証金はなく月極家賃制。中高年以上~老人が多い。電気は通っているが暖房設備はなく、炊事場・トイレは共同。“ハチの巣”と呼ばれる。生きて入る棺桶。
ここは、単純に「都市の発展から取り残されたスラム街」というわけではない。首都の商圏内にあって再開発の可能性はいくらでもあって、それが富裕層の投機と搾取の場になっている。チョッパン街を所有すれば再開発の手が入るまでの数年も、定期的な現金収入がある。住宅として登録された正式な賃貸物件ではないから、脱税的現金収入になる。平米当たりの収入でいうと、高級タワーマンションの4、5倍の収益になる。物件のメンテナンスなどの義務からも逃れている。間に管理人を置いて集金させるだけの美味しい物件。
新チョッパン街:ソウルの大学周辺のワンルーム。地方出身の学生のためのワンルームを、家賃収入を上げるために幾つにも仕切って改修して貸し出す。キッチン・トイレ含めて12~3平方メートル程度。窓のない部屋も多い。それで保証金(デポジット)100万~400万円に+月極家賃1~4万円。安いわけではない。
*
途中だけど。メモ書きするだけで草臥れた。
*
韓国日報の若い記者が書いているのは「貧困は隠されている」ということ。「貧困は恥ずかしい」と考えられているということ。記者自身も学生の頃「住居貧困」で取り繕って生きていたと。若い時の苦労は買ってでもしろと言われるけれど、窓もない黴だらけの半地下の、寝台を置くのが精いっぱいの、シャワーを浴びて体を横たえるだけに潜り込む巣で20代の6年、7年を暮らすことが意味のある苦労なのか。
韓国のトップ3に入る大学の学生でさえそうなる。大学院を修了して企業のインターンを始めた男性の「計画」が、窓があって台所と部屋が分かれているいまより何坪か広い部屋を手に入れること。それは計画したり希望したりすることではなく、最低限の権利として保障されるべきことだと記者は書く。チョッパン住みの彼に「住居貧困だと思うか?」と聞くと、不快そうな顔をして「いや、思わない。貧困ではない。今だけのことだから。ぼくには計画があるから」と答える。こうして貧困は当事者の意識からさえ隠される。そして、チョッパンから抜けられるのは記者やこのインターン学生のような上位5%にはいる層くらいだ。
地方からソウルに来た若者や、旧チョッパンの老人たちが貧困なのは自己責任ではない。人生を怠けていたからではない。彼らが貧困なのは彼らのせいではなく貧困であることを強いられて来たからだ。
恥の意識が貧困を隠し、それに隠れて富裕層が貧困層から搾取し続ける。
メンタリティが近いせいもあって他所事とは読めなかった。見えない(見ない)だけで、日本にも同じようなことがあると思う。今住んでいる部屋に来月もいられるかどうか気に病まなきゃならないとしたらそんな不安な辛いことはないだろう。
太郎さんが「住まいは権利」と言い続けるのは正しい。
Webちくまの書評。