2025年4月20日日曜日

「マット・スカダー わが探偵人生」

 





2015年に出た「償いの報酬」を最後に
マット・スカダーの長編はもう読めないかもしれないと
ローレンス・ブロックの年齢を数えながら思ってた。
まさか「自伝」が刊行されるとは!

「短編回廊」では自作を収録せず
書いてももうストーリーがどこにも着地できないと言って
ぼやいていたブロックさんだったけれど
こんな仕掛けをもってくるとは。

スカダー・シリーズは全編通じて
マットの語りに苦い味わいがあってそこが好きだったので
最後に読めて良かった。

シリーズをちゃんと閉じるところ
さすがMWAのグランドマスター。






ちゃんと目を通したんですか編集さん?と思うくらい
校正モレがたくさんあって、ちょっとイラっとした。
二見書房、大丈夫なのかなぁ。





2025年4月14日月曜日

夢疲れ

 





夢見て疲れている。




昨日。
知り合いの20代の子たちが
向井秀徳さんと一緒に小さなフェスをやるという。
え、いいね。すごいね、とわくわくしてたら
なんか運営の手伝いをすることに。
途端にめんどくさくなる。
フェスの最後には坂本龍一さんに
ピアノを演奏してもらって閉会にするという。
えええーなにそれ?
絶対失敗できないじゃない、と驚く。
大きな流れが動き出して、うわぁ抜けたい!と焦る。



今日。
振袖タウンという人気のグルメスポットで
ひとりランチ。
韓国ビストロで牛ローストのなんちゃらソースを食べる。
美味しい。いやいやほんとに美味しかった。
(夢でちゃんと食べてるって珍しくないか?)
おススメされた料理で
ランチ2,000~3,000円だったから
これは5,000円くらいはするかなぁ
でも美味しかったしいっか、と思いつつ会計。
210,059円也!!!

ええー??ぼったくり!?
現金払いだと?
こんな金額聞いてません、というも
マスターほか従業員二人出てきてあーだこーだ。

どーしたらいいの?
110番したらいいの?
メンドクサイから払っちゃうか。
ATMに下ろしに行く。

コンビニのATM、6桁の暗証番号入れろと。
6桁?え?そんなん知らないし!
えーどーしよー、メンドーーーー!!!






悪夢ってほどではないけど
面倒ごとから逃げたくて困ってる。

あーーーーもう、ほんと面倒なこと嫌いなんだよぉ。


春だからかな。
カロライナジャスミンの花がこぼれるくらい咲くように
オミジャの蔓がもりもり這い登ってくるように
ほんのり冬眠してた脳が覚醒しようとしてるのか。
暖かくなって夜の脳が溶けて来てるのか。

布団がまだ冬仕様のままだ。
カバーを替えよう。








2025年4月12日土曜日

春はきらい







今朝の夢。

日本沈没という大カタストロフィに生き残った。
八ヶ岳辺りの高原にいて
生き残ってしまったことに絶望していた。


生き延びたと、難を逃れたと
喜ぶ能天気さがあれば良かったのに。
夢なんだから。

いまや絶海の孤島のようになってしまった高原で
どうやって生きていくのか。
なんて、そこリアルに考えて絶望してるところが悪夢。




春はいつも体調崩しがちなんだけど
ひさしぶりに喉風邪をひいてしまった。
耳鼻咽喉科へ行って治療してもらって
薬飲んで喉の違和感は治まったけどうっすらと怠い。
熱は出なかったからさほど辛くはないんだけど。
なんかずっとずっと眠い。

お薬手帖を見たら、前回の同じ処方は2021年で。
コロナ禍下で、ほんと用心して過ごしたからな。


毎朝、夢疲れして、目覚めて鬱々としている。
体力もなくなってるし
一日出かけると翌二日くらいダラけてしまう。
無敵の元健康優良児も見る影もない。




ローレンス・ブロックの新刊がでた。
「マット・スカダー わが探偵人生」

マシュウ・スカダーの自伝。
ゆっくりゆっくりページを繰っている。
ほんとうにこれで最後なんだな。




ああ、眠い。
春はきらい。



2025年4月9日水曜日

MAY SILENCE BE WITH YOU






「坂本図書」へ行ってきた。




とても良かった。






予約をして、3時間の滞在が許されて。

蔵書の棚をさっと眺めているだけでも
時間は経ってしまうから
坂本さんの自著の棚から一冊抜き出す。

「音楽と生命」の続きを読もうかと思ったのだけど
背表紙の優しい色――和色なら勿忘草色、洋色だとヘブンリーブル―かな
その青に惹かれて「ピアノへの旅」を。

とても良かった。

言及されてる本を読みたくなった。
音楽を聴きたくなった。
メモした。







ピアノはボディを作るのに
大きな力を半年ほど掛け続けて撓めること
だから調律し続けなくてはならないこと
放っておいたピアノの音を「狂った」と言うけれども
木がスチールが元のカタチに戻ろうとしているだけなのだから
そのままで良いじゃないかと
所蔵するピアノの一台の調律をやめたこと

東日本大震災で津波に流されたピアノの音を美しいと思ったこと
ひとではなく自然が調律した音なのだと思ったこと
音階から解き放たれて自由に鳴る音を聴きたいと思うこと
いち音の響きが消えてゆくその時間を聴いていたいこと


坂本龍一が心惹かれた音に共感する。





古いビルの一室にある坂本図書はこじんまりとして
坂本龍一の演奏する曲が――「async」や「Opus」――
文字を追う視覚の働きを邪魔しない小さな音で空気に溶け込んでいて
とても集中して本を読んだ。





静寂に至る音楽と沈黙とともにある空間。




とても、とても良かった。



2025年4月4日金曜日

儚い。

 



幼年期のさなか、美しい夢から目覚めた私は
その素晴らしさを母に語った。
母は優しく耳を傾けてくれたけれど
少し物悲しい表情になり
「その夢のことも、だんだん忘れてしまうのね」
とつぶやいた。
こんなに美しいものを忘れるわけがない。
首をかしげる私を見て母は微笑んだが
もしほんとうに夢が消えてしまったらどうしよう。
時間の果てしなさにぼんやりと思い至り
ほんの少しだけ恐ろしくなった。
その日、鮮やかな光景を失う恐れと
母の物悲しい顔が気にかかり
私は毎日この夢を隅々まで思い出すことにした。
<美術家・福田尚代>



そうして福田尚代さんは高校生の頃まで
その夢を思い出すことを毎日続けたという。







夢の中で
大好きな声が歌うのを聴いた。

遠くの山並みまで視界の開けた
広いルーフバルコニーのベンチに座っていると
右後ろから声が聴こえてきた。

知り合いの子どもに
いまこんな曲を作ってるんだ
次のアルバムに入れるよと話し
メロディーを歌いだした。

隠れていたわけではないけれど
歌う鳥の邪魔をしない時のように動かず
でもリラックスしてその声を聴いた。息をのんで。

ああ、その歌は間に合わなかったねぇ
と思いながら。


目覚めてシアワセだった。
やっぱり、姿は見なかった。
私にとってのチバは、声だから。
もちろん姿も見れれば嬉しいような気もするけれど
声が私にはいちばんのリアルだから。

しっかりと思い返して忘れないでいようと思ったけれど
それはやっぱり無理だった。
夢の中で聴いた声を、どうやって記憶したらいいのか。
歌う声のそばにいて聴いた、その時の感覚を
どうやったら留めておけるのか。
目覚めて、反芻しはじめた瞬間に
声も、鼓膜の震えも朝霧のように消えてゆくのに。


これを書いているいまなんて
もうなんにも残ってない。
哀しいくらいに儚い。







何年も何年も、毎日思い出すことのできる夢。
それは、良いものなのかな?
芸術をやるひとならではの、資質なのかな。
自分の中で昇華させたイメージなのかな。


10数年にわたる反芻に耐えうる、それは、夢なの?






夢で、聴いたという
微かな愛おしさだけが残ればいい。
それだけでいい。ね。




2025年4月1日火曜日

「ノイエ・ハイマート」

 



アイラン・クルディ。
トルコの海岸に俯せた君の写真を見て
とても衝撃を受けたはずなのに
ごめんね。
君の名前も読んだはずなのに
忘れてしまっていたよ。ごめん。







2017年の横浜トリエンナーレの
会場の入り口の柱に設えられた救命ボートと救命胴衣の
アイ・ウェイウェイの作品を覚えているのに。


3歳のアイランの名を思い出させてくれたのは
池澤夏樹の「ノイエ・ハイマート」


戦禍や迫害を逃れ、住み慣れた家、故郷を離れて、難民となった人々。
日本とシリア、二人のビデオ・ジャーナリストの物語を軸に
クロアチアの老女、満洲からの引揚者
トルコの海岸に流れ着いたシリア人の小さな男の子など
さまざまな難民たちの姿を多様な形式の20章で描きだす。
今どうしても書かざるを得なかった作品集。
<新潮社HPより>




トルコの海岸から8年、9年経っても
難民にならざるえなかった方々は減ることなく
難を逃れることもできずに閉じ込められたままのひとたちもいる。

メルケルさんの時代には
あんなに移民に門戸を開いていたドイツまでが
反移民政策に舵を切ったというニュース。
世界中、どこにも余裕がなくなってる。

幸せな物語なんかどこにもない。





夢で会えたら

 



朽ちてゆく椅子
割れた花鉢





最近、よく夢を見る。
夢の中でさえ、ひとと会っていると疲れてしまう。

夢の中で目の前にいる
はっきり誰とわかるひとと、ひとことふたこと話すのだけど
なぜこのひととここにいるんだろうと
夢の中でさえ腑に落ちなくてそわそわする。
べつに嫌いなひとというわけでもないんだけど。

夢に出てくるひとって
会いたいと思ってもいないひとほど
はっきりとした姿で目の前にいるよね。

会いたいな
夢でも会えたらいいのにな
と思うひとほど夢に現れないし
知っている姿かたちを伴って現れたりしない。

気配だけ。
(会いたい)誰々といる、ってわかるんだけど
姿かたちは見えていないことが大半。
それでも言葉は交わしている(気がする)
会えて嬉しい気持でほんわりと心地良いのは自覚するんだけど
すこおし、歯がゆい。

目覚めて
なんではっきり現れてくれないのかなと思うけど
夢自体が、会いたい誰それ、そのひとなのかも。
夢見る脳が、そのひとの存在で占められているのか
夢で、そのひとの存在の中に入り込んでいるのか。


そうだねぇ。
なんで夢に出てきたのかよくわからないひとって
たいていそのひとの内面までよく知らない。
姿しか記憶されてないから夢の中で姿しか再現できないのかな。

存在って、姿かたちの事じゃない。