2024年6月30日日曜日

どんより6月

 


枇杷たわわ。

枇杷は女のひとの果実、という気がする。
隠し事や懊悩がつまっているような。

6月も終わる。




最近、妙にリアルな夢を見る。
今朝も、退職した職場のひとたちが出てきて、なぜかトラブルに立ち会う羽目になって、相変わらずマニュアルをクリアしないと終わらない職場だなぁと、ウンザリしている夢。

もう、退職して一年経つのに。

どうもね、おうし座はイヤなことを消化するのに時間かかるらしい。
反芻動物だから?こじつけでしょーと思うけど、ん~確かにいつまでも悶々としちゃうし、不意に思い出すと何十年前のことでも当時のままのイヤな気持が甦るしなぁ。
おうし座って言ってもヒトなので胃は一個しかないから消化不良起こしてんのか。毛玉みたいにペって吐き出して忘れたい。

今日の天気も辛すぎる。
そんなに気温高くないのにどんよりと湿度こもってて、大気がPMSなんじゃないのって思う。
ああ、鬱陶しいなぁ。
プール入りたい。大きな水に潜水して水圧で気圧とバランスとりたい。
どこかに潜水可のプールはないか。

眠い。。。

匂いのイメージは上書きできない

 


セイヨウニンジンボク
葉に触れると菊のような匂いがする。




以前、家庭用の殺虫剤に添加されている匂いがライラックだって気が付いてから、その匂いがとても苦手になった。
ライラックはルームフレグランスなどでよく使われてるんだけど、その香りがすると息止めてしまう。脳内で殺虫剤とイコールになってしまっているので無理。
ライラックの花樹は美しいし、たぶん生の花を嗅いだら違うのかもしれないけれど。

香りって、ほんとうに生理の奥に届いて留まるんだと思う。
一度イメージがついてしまうと、上書きできないんだよなぁ。


   *


最近、洗濯洗剤を無香料のものに変えた。

洗濯洗剤には特にこだわりもなくて、極々普通の量販品を使ってたんだけど。
香りも、これと言って特徴のない薄いフローラルで、何の匂いとも言えないようなものだったんだけどね。

2階の自分の部屋にいた時、ふっと鼻をかすめた匂いに「ん?お母さん?」と思って。
なんでだろう、って。階下のひとが2階に上がってくることなんかないし、私の部屋に入ったこともすくなくとも13年ないと思うのに。
つまりね、洗濯洗剤の匂いだったの。洗濯自体は別々だけど同じ洗剤使ってるからね。
彼女は洗剤を結構使うみたいで、そばにいると服から香ってた。まめに洗濯してるんだからそれは良いことなんだけど。
でも、その洗剤の匂い、イコール階下のひとの匂いになってしまってたみたいで。
自室でふいと香ったのは、私自身が着ているシャツからだった。

気づいて、生理的な嫌悪感が湧いてしまった。

階下のひとは後期高齢者だし、以前ほど身ぎれいにできなくなってるから年寄り特有の匂いはある。でも、それはいいの。好ましくはないけれど、そういうもんだと思うから。
でも、洗剤の匂いは、すごく嫌だと思った。自分の身に着けている物から匂うの、いやだ。

もう何年も同じ洗剤使ってきてるんだから、いままでだって“同じ匂い”を嗅いで暮らしてたはずなんだよね。でも、それに気づくくらい、いまの私は彼女を拒否してる。
暮らしの匂いを我慢したらものすごいストレスだから、同じ匂いを纏わずにすむように、無香料の洗剤に変えた。

使ってた洗剤の詰め替え用ストックがまだ結構あるので、階下のひとにはそれをそのまま使わせてる。洗濯機は一台なので、洗剤の使い分けで大丈夫なのか判らなかったけど、とりあえず自分の服やタオルから薄いフローラルは匂ってこなくなった。ほっとした。


   *


いまね、自分がすごくナーバスになってる自覚、ある。
こんなのも、きっと今だけ、って思わなくもない。
だけど、匂いの、イメージを喚起する力ってすごいと思った。
好悪の感情にダイレクトに働く。で、コントロールができない。
映画「パフューム」を思い出してすごくリアルに感じる。



2024年6月24日月曜日

読書記録



本は読めているんだけれど
読み終えた途端に
いや、ページを繰る端から
内容が流れ去ってしまってる気がするなぁ。

ああ、とか
ほぉ、とか
いいなぁ、とか
そっかぁ、とか

ちゃんといろいろ感じて読んでるんだけど
心の奥に定着しない。
ような。

ま、いっか。



青木冨貴子とピート・ハミルが夫婦だって知ったのは
911のあと。
2001年の秋にでたルポ「目撃 アメリカ崩壊」を読んで。
この著者が青木冨貴子だった。
学生の頃に読んだ「ライカでグッドバイ」の著者でもあったのね。

ロバート・キャパの「ちょっとピンぼけ」のあと
戦争ジャーナリズムの本がいろいろ出版されて
それで読んだのかな。
「地雷を踏んだらサヨウナラ」なんてのもあったな。
いや、も内容全然覚えてないわ。
亡くなった従軍カメラマンの名前さえすぐ出てこない。
読んだの何十年も前だしな。

あ、「アローン・アゲイン」について何も書くことがない。
ない、というかごめん忘却の彼方です。
同著者の本を3冊も読んでるっていうのに
なんでか印象がうすいなぁ。




アメリカの爺はタフだな、と。
いや、キャラクターも文体も
あと過剰にドラマチックじゃないとこも
かなり好きだし、良い感じで読んだんだけど…。





SNS発の書物。
国道なのに道なき道を行く感じとか
鄙びにこだわる旅の風情とか
好きです。

でも、SNSのタイムラインに上がってくる
頻度と密度で流し見るのがちょうどいいかな。

ネット上で読むものと
紙の本で読むものとは
なにかが根本的に違う気がするんだよなぁ。
なんだろ。

あ、鄙び宿に伊勢の星出館がでてて
懐かしかった。
星出館行ったのいつだっけ。
2016年か。旅人聴きに行ったときだ。
8年前。
8年って、どんな長さ?
なに?なんか、よくわからない。


ほぼほぼ読んだ本に言及できない読書記録。


 

2024年6月20日木曜日

「やがてヒトに与えられた時が満ちて・・・」








星が見える。これは驚くべきことだ。
この奇跡が可能になるために、いったいいくつの宇宙的偶然が必要だったか、
改めて数えてみよう。

星が見えるには、まずもって空が晴れている必要がある。
地球の空は曇ることもあるが、しかし待てば晴れる。
金星のように何万年待っても厚い雲に覆われたままの空とは違う。
金星に知性ある生き物がいたとしても、天文学は発達しなかっただろう。

地球の空が晴れる前に宇宙そのものが晴れている必要があった。
最初期の混沌状態から物質と光が分かれ、その光が伝播できるだけの空間が生じる。
宇宙の晴れ上がりだ。そして星が生まれる。
星の光が何年か、何千年か、何億年かかけて地球に届く。

そしてそこにヒトがいる。
光を感知する器官と、その意味を考えられる脳、
宇宙の全容を想像するための知識を持ったヒトという生物の一個体、
つまりぼく、がそこに立って、星空を見上げている。


そういう偶然の連鎖の果てに、
ぼくが星を見てきみたちを思うということが可能になった。
それが偶然なのか必然なのかという議論もあるだろう。
ともかくヒトは星を見ることができるし、
星の世界へきみたちを送り出すこともできた。

「一九七七年に旅立った二人への手紙」より







池澤夏樹をとても好きなのだけど、読んでいない作品のほうが多いかもしれない。
なんか、好きすぎて手を出せない、みたいな。
この2007年発行のlyricalな小品集もノーチェックで、たまたま入った古本屋で見つけて、手に取って、開いた最初のページの「星が見える。これは驚くべきことだ」の1行に降参した。

きみたち、というのは、1977年に打ち上げられて今も旅を続けている2機の探査機ボイジャーのこと。

私たちは、宇宙をゆく無人探査機をなぜ擬人化してしまうんだろうね。
躯体からアンテナやら電池パネルやら突き出した、ただの無骨な金属の塊なのに。
JAXAが飛ばした惑星探査機「はやぶさ」が帰還して大気圏に突入して燃え尽きた時には、鼻の奥がツンっとしたりして。
池澤夏樹は1994年にフリーマン・ダイソンに会った時に、ボイジャーに「愛すると言いたい気持」を抱いていることを告白し、ダイソンから「私も彼らに対して同じように感じている」と返事をもらったそうだ。星の世界へ送り出される、愛おしいモノ。なんだろうね、この感傷は。

ヒトが、ホモ・サピエンス・サピエンスが、宇宙の片隅でひとりぼっちだっていうのを、星を見ることで知ってしまったからなのかな。


「やがてヒトに与えられた時が満ちて・・・」は、種としてのホモ・サピエンス・サピエンスの時間が尽きた後にヒトはどこへ行くのか、どこかに行けるのか、たどり着くと言える場所はあるのか、、、そんな寄る辺ないサミシサが創造させた物語だ。

宇宙に浮かぶ植民都市では、追憶は禁じられている。
地球との繋がりは途絶え、子どもが生まれることは稀で、衣食住足りて希望がない。
追憶さえも禁じられて、ひとは生きていけるのかな。寂しい淋しいさみしいねぇ。


冒頭には6ページほどのショート・ストーリーが四編載っているのだけど、「ボイジャーへ」、「明日宇宙へ行く自分へ」、「いるかどうかもわからないあなたへ」、「終末論研究者が死に際に」語りかけている。
誰かに、自分以外の誰かに、語りかけずにはいられない。それほどに孤独でサビシイんだね。我々、ホモ・サピエンス・サピエンスは。

そりゃぁ、誰かに出会いたい思いを託して、途方もない時間の彼方へ送り出される探査機が愛おしくないはずがないわね。

160ページくらいしかない薄い本なんだけど、これも一気に読み終えたくなくて、一編一編、ゆっくりと何日もかけて、間に他の本もはさんで、読んだ。







周回する役目を終えて地球と別れを告げる
人工衛星のキモチ。愛おしい。



 検索して知った惑星探査機ボイジャーの現状。
1号機も2号機も太陽系の外に出て飛び続けている。2024年現在、まだ通信は繋がっているけれども2025年頃には原子力電池が尽きて稼働が停止するらしい。
その後も、慣性の法則で飛び続ける。
ほんとうに、ひとりぼっちになる。話しかける相手もいない。


どこまでいくのかな。
どこかの星の重力に捕まってしまうのかな、墜落して燃え尽きてしまうかもしれないね。
もしかしたらもしかしたら。
百億の偶然が重なった奇跡の果てに、誰かに拾われることもあるのかな。
その誰かは、チャック・ベリーを聞いてイカシテルって思うだろうか。

そんな奇跡が起こったとしても、きっとその頃にはホモ・サピエンス・サピエンスは存在しないし、そんな奇跡を知りようもない。


  *


星が見える。
そんな奇跡をいま味わおう。

2024年6月18日火曜日

地元の喫茶店





ランチタイムのセットメニューでついてくる
ミニサラダ
というものが大嫌いなんです。

ちいさなボウルに盛られた
いや、あれは盛られてすらいないな
形だけの、アリバイサラダ。

見るたび
なんだこの野菜屑は!と
不機嫌になる。
私は小鳥か青虫か。
最近はミニトマトの半分さえ
添えられてないことも多いよね。

もともと生野菜好きではないので
ドリンクだけでいいのにな。



最近たまに行く喫茶店があって。
イマドキ珍しいマスター然としたご主人がいて
丁寧な応対をしてくれる。
広くはない店内の真ん中に
こじんまりしたひとり席がある。
背の高いフィカス・ウンベラータの鉢で目隠しされていて
ゆったりしたアームソファは坐り心地が良くて
身体を預けるととても落ち着く。
私の定位置。
本のページが捗る。

このあいだ小腹が減っていたので
ピザトーストを頼んだら
小皿にフルーツが付いてきて
それがとても良かった。
ブドウだったりキウイだったり
今日はサクランボ。
数種類の時々の果物。
ランチタイムとかセットメニューというのはないので
フツーに供されるのだけど
はじめて出されたとき、わぁ♪と
嬉しくなった。
フルーツは贅沢なものだな。






季節のフルーツというと
大好きなイチジク。

ホームメイドのケーキを出すカフェの
ロールケーキがイチジクで、おお♪となる。
まだ走りのこの時季に
イチジクがごろっと入っている。

ロールケーキ大好きで。
スポンジとクリームの割合には煩いですよ?
クリーム多けりゃいいってわけじゃない。
パッと見、私基準ではクリーム多めに見えるんだけど
食べるとバランスがすごく良い。
クリームもほんとにフレッシュなので後味が良い。
厚めにカットしてあって500円って安い。
いつまでイチジクかなぁ、桃とかに変わる前に
毎日これ食べに行きたい。
さすがに毎日は我慢して、5日にいっぺんくらい?

ここはホットサンドイッチも美味しいのだけど
ドリンクセット、ドリンク+サラダセットと
選択肢がある。
もちろんサラダは不要。
この選択肢は良いね。

でも、セットサラダでも
価格設定で差をつけてるんだから
もしかしたら野菜屑じゃないサラダが出てくるかもしれないな。
でも生野菜嫌いだし。やめとこ。

私鉄沿線住宅地の地元カフェとか喫茶店って
いままで入る理由がなくて使ったことなかったんだけど
良いお店も結構あって意外なヨロコビ。

まあ、こんなことして息抜きして暮らしてます。



2024年6月17日月曜日

最近の居場所




緑のある場所。




本のある場所。





カレーライスと。


本を一冊持って。
家から離れる。




2024年6月12日水曜日

デッデーポッポー





キジバトが鳴いている。

デッデーポッポー

眠気を誘う声。
微睡みながら、この曲が重なってくる。







メンタルクリニックというところへ行ってみた。

階下のひとに手を貸すことが多くなり、なんというか、、、辛い。
手を貸してるその時間はたいした手間でもないので普通にこなすんだけど。
部屋に戻ってはぁ…とひと息ついて、やっぱりモヤモヤと考えてしまい息苦しくなる。
不安というのか、恐怖というのか、嫌悪。
感情が渦巻いて、首から頬にの皮膚がぴりぴりして動悸がする。頭がかぁっとなる。手が震える。
血圧上がってんのかなぁと測ると140。
普段せいぜい110なんだけど。
(親知らず抜いた時でさえ全然血圧上がらなくて歯科医師に驚かれた人です)

考えないように存在切捨てて、と思うけど、深呼吸するくらいじゃ消えてくれない。
階下にいるんだもん。

べったり介護が始まってるわけじゃない。
介護してますって言えるようなレベルじゃない。
“手を貸すことが多くなった”程度。
でも、子供が成長して手がかからなくなるみたいな未来はありえないしとか思うから、不安と悪い想像しか湧いてこない。
あれこれ先のこと先のこと考えすぎてしまう(でも具体的な行動はなかなかできない)のは、私の悪い癖なんだけど。

どーしても好きになれない人と関わらなくちゃいけないという対人ストレスに滅法弱いんだよね、私。

ともあれ、身体症状としての息苦しさを、何とかしたくてメンタルクリニックへ。
ストレスの原因は判ってて、どうするのが良いのかも解ってて、医者と話してもどうしようもないよなぁ、、、、と、先読みしてしまうのも悪いとこなんだけど。
期待しないで行ったとおりの、そーだろーなーという話で。

不安や緊張を和らげる薬:プロマゼパム
睡眠の質を高める薬:デエビゴ
一週間分処方されて帰る。
プロマゼパムは、なんか嫌ぁな予感がする、、って時に飲んだりしてみてるけど。
効いてるんだか効いてないんだか。まあ、それ飲んで一気にポジティブ~♪とかなったらむしろ怖いし。

こんな薬より、チバが生きていて、ビデオレターでも出してくれたらそっちの方がずっと効く。絶対効く。とりあえずカッコいい~へらへら~って感じる心臓があるだけで息がつけるんだけどな。束の間でも。ほんとこのタイミングでチバがいないって、なんでなのって思う。なんで死んじゃったんだろうなぁ。


そうだ、血圧に関して。
まあ血圧はちょっとしたきっかけで上下するし、140がすぐさま懸念される数値というわけでもないらしいけど(上がりっぱなしというわけでもないので)、測るときに心拍数も観てくださいといわれる。動悸がすると言って測って心拍数が100~160とかになるようだと、心臓の負担が大きいので119番コールですよ、と。
まあ、これが唯一、へぇ~そうなんだ、専門家に聞かないとわかんないもんだな、と思ったプラス点ですかね。
私は心拍数は血圧上がってるときでも60~63くらいで問題はない。らしい。
まあ、身体は基本、丈夫なほうなんです。


メンタルクリニックでの会話ってこんなもんかぁと、失笑しそうになったとこ。

家の事情を話して
医者「なかなか口には出せないでしょうけど、早く死んでくれたらって思いますよね」
  「刑務所で暮らすほうがラクなんじゃないかって思うひともいますよ」
  
なんか、どう反応したらいいか。。苦笑するしかなかったな。
家では家人と冗談めかして「なっかなか死にそうにないよね~」「こっちが先に死にそうな気がする」みたいな会話はするし、
刑務所云々は「あのひとに手を出して、自分の人生台無しにしたくはないよぉ」と思ったしな。

でも、ここ訪れる人の中には、そういうことを口に出すことはおろか、意識化すらできなくて苦しい人もいるんだろうな。
人前で言えない感情を、「こんな風に思ったりもするよね」って医師が代わりに言ってあげることで気持が救われる人もいるんだろうな。


メンタルクリニックという場所が初めてで、ここが良いのかどうなのか、まったく判断つかないんだけど。まぁ、色々試してじたばたしてみてる。


そして気づいたのは。
読書に没頭している時間が一番、精神の安定に効くということ。

「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」を何日もかけて、彼の曲を聴きながら読んでいた間、イライラもやもやと嫌な感情に囚われそうになった時にも、すっとそれを消すことができた。だから、夢中で読んだ。思いのほか良い読書になった、というのはそういうことでもあったの。

音楽も。手元に素晴らしい音のストックがたくさんあって聴いているんだけど、聴いて感情が鎮まっていくのを実感するんだけど、ただ、鎮まった頭の中で負の言葉がふつふつと意識に上ってきてしまいそれに押し切られてしまいそうにもなる。

読書は、文字を読むという意識的な行為だから、それに集中している間は他の言葉(意識)をシャットアウトできる。


家を出る時間も、有効。
川縁や雑木林を歩くこと。
完全にシャットアウトはできないけれど、「階下にいる」という存在感の大きさからは離れていられるし。だから、家に引き籠ってるの大好きで苦にならなかった私なのだけど、毎日外に出るようにしている。古本屋の店番とか、どっかで雇ってくれないかなぁ(笑)

そうそう、ひさしぶりに瞑想の会にも参加してきた。5月の頭だけど。
ぜーんぜんダメだった(笑) 煩悩苦悩葛藤不安がいっさい消せずもぞもぞもぞもぞしながら45分過ごしてた。う~ん修行が足りない(笑)




2024年6月9日日曜日

「ぼくはあと何回、満月を見るだろう」




Because we don’t know when we will die,
we get to think of life as an incxhaustible well.
Yet everything happens only a certain number of times,
and a very small number really.
How many more times will you remember 
a certain afternoon of your childhood,
some afternoon that's so deeply a part of your being
 that you can't even conceive of your life without it?
Perhaps four or five times more.
Perhaps not even that.
How many more times will you watch the full moon rise?
Perhaps twenty.
And yet it all seems limitless.

 Paul Bowles
「The Sheltering Sky」





思いのほか、良い読書になった。

YMOの頃から、坂本龍一の音楽は、音は、いつも耳にしていたんだなぁ。
意識的に聴いたのは10代の頃、「SOLID STATE SURVIVOR」くらいだったけど。

この本を読みながら、彼の作る曲や、彼が語る音、映画、本に興味をそそられて
「Out of Noise」「Async」「THREE」「PLAYING THE PIANO」「Disappearance」と立て続けに借りてきた。彼が作った音楽を聴きながら、彼の言葉を読むのがとても良かった。聞き書きで読みやすく集中して読んだのだけど、読み終わってしまうのが惜しくて日を置いて、ゆっくりとページを繰った。

時間から解き放たれた音楽
モノとしての音

坂本龍一が作ってきた音が、私はとても共感するし心地良い。


 

2024年6月1日土曜日

ムクドリ と シジュウカラ




6月か。




そろそろ巣立ちなのかなぁ
と思ったムクドリは
その後も鳴き続けていた。

それから2週間。
今朝はメシくれジャジャジャが、ない。

巣立ったみたいだね。
だけど
隣の屋根の上でヒナっぽい鳴き声が聞こえる。
メシくれジャジャジャではないけれど
親を呼んでる感じの黄色い声。

どこ~?
と覗いてたら、雨樋のあたりに親が来て
ギャーと鳴く。
エサは咥えてないし、巣には近寄らない。
自力で飛んでついてくるよう促してるのかな。
黄色い声のボリュームが上がる(うるさい)

メシくれジャジャジャに比べれば
静かなもんだけど
巣から出たのにおんなじとこにずっといると
カラスに襲われたりするんじゃないかと
ちょっと心配。





数日前。
ベランダにシジュウカラが来た。
モミジの木やベランダの手摺あたりでは見るけど
ベランダの床にまで降りてくるのは
珍しいなと思って見ると。

おーまいがー!!

3年目の実生レモンの鉢にとまってる!
あ!!っと思ったら
丸々と育ったミドリモスラを咥えてドヤ顔。

このレモンの鉢はここ数年
ナミアゲハの産卵用に置いてるようなもので
アゲハが飛ぶようになって
卵が着いた時から
なんとなく楽しみに眺めてきた。

齢違いで育っていて
順調にミドリモスラになった2匹のうちの
そろそろ蛹化しにどこかへ旅立つかもなぁ~
と思ってた大きいモスラが餌食になった。

シジュウカラの捕食の様子を
逐一目撃した。
なかなか、ワイルドで
“小鳥”とか可愛くイメージしてても
野生とはこういうもんだよね、うんそうだよね(しおしお)
となるような光景でしたわ。

シジュウカラが飛び去った後すぐ外に出て
鉢を確認するともう1匹、小さいモスラが
レモンの葉の裏にじっと隠れて無事だった。

ここに置いておかないほうが良いよね~と
私の部屋の硝子戸のすぐ外
アジサイの陰になる場所に移動させた。
素通し硝子で人影もあるし
元の場所から3メートルくらい離れてるし
手摺側からは見えないと思うし
大丈夫かな。

と思ったら、甘かった。

部屋に戻って網戸締めて坐ったところで
レモンの鉢にシジュウカラ襲撃。
完全にレモンの若木を
そこにモスラがいるってことを
把握して記憶してたみたいな
迷いのない動き。

2匹目のモスラも捕獲されてしまいました。
私のやってること見てたのかもしれない、ホントに。
恐るべしシジュウカラ。
鳥類の捕食能力、素晴らしいです。

いままで何匹もモスラがベランダで育って
いつのまにかいなくなってて
ああ、食べられちゃったかなって思ったりしたし
考えてみればこういうことなんだけど
目の当たりにすると、驚く。

どこかでシジュウカラのヒナが育ってるんでしょう。




在りし日のモスラ&クソムシ。




ムクドリの鳴き声も聞こえなくなった。