2024年3月23日土曜日

「怪物」

 





嵐の日に、子どもたちが消えた。
映画「怪物」、タイトル上手いよね。
ミステリなのかホラーなのか、なにがあったのかって想像めぐらすよね。

邦画が選択肢にまったくないので、友人に薦められて前知識ゼロで観はじめた。
是枝監督作品も、はじめて観る。

友人の口ぶりから伏線やら仕掛けやらいろいろありそうだったので、冒頭からかなり集中して観る。
ひと癖ありますけど、なにか?って顔に書いてある安藤サクラ。
ただ者のはずないだろう?っていう田中裕子。
このふたりが同じ画面で大写しって十二分に怖い。絵面がホラー。
校長室での教員たちの態度のあり得ないような禍々しさ。
もしかして本当にホラーなの?と身構えたり。

でも、それは保護者サオリ(安藤サクラ)視点なんだと、後になってわかる。
映画全体が母親サオリ・教師ホリ・主人公湊の三つのパートで描かれていて、ひとつの出来事をそれぞれの視点でなぞるので時系列が巻き戻ったりするんだけど、すごく描写が上手くてさほど混乱することなく伏線や仕掛けがなるほどそういうことだったのか、と無理なくわかってゆく。サオリ視点で、校舎の踊り場に怪物の雄叫びのように不穏に鳴り響いていた“音”も。これ、上手いなぁと思った。

息子の湊に何か起こっていて、息子を守るために単身学校に乗り込む母親の眼には、教職員の態度はゾンビのように映るよなとも思う。

担任ホリの視点に移ると、サオリ視点を、え?なに?と思うほどホリの新任教師としての誠実さや無力さが見えてくる。

最後に小学校5年生の湊の視点に移る。
麦野湊になにが起こったのか?という設問を立てるなら、湊視点のシーンが真相と言うことなのかもしれないけれど、それもまた事実のすべてではないんだろう。

語り手が変われば、語り手の数だけ物語があって、語られるディティールもそれぞれに不揃いで、つなぎ合わせてもちぐはぐさはモザイクの目地のように残る。そこには不純物のように嘘も混じる。無垢な真実なんて描けない。


湊と友人の星川依里が、二人の秘密基地でするゲーム。
「怪物だれだゲーム」こういう名前だったか記憶にないけど、子どもの頃やった記憶はある。このゲームの、自分がなにものなのかを直接見ることはできなくて、相対する他者に語ってもらう以外自分を知る術がないという、そのことがこの映画では描かれてるのかな。

自分自身を直接見ることはできない。
いまは写真があるけれど、それだって生身の自分を見てるわけじゃない。
(考えてみれば、自分自身を直接見た者は人類史の中でひとりもいない、ってなんかすごいことじゃないか?? 不可能なことと理屈ではわかるけども)

自分を見てるのは他者、目の前の誰か。
自分が人間なのか怪物なのか、見ることはできなくて、目の前のひとに語ってもらうしか知りようがない。
自分の姿は鏡ごしにしか見られないのだと思いいたると、依里の鏡文字も、子どもの発達障害的なものの表現と言うより、鏡像としての自分、の暗喩?象徴として使ってるのかなぁ。
金魚の反転病も?


「怪物」というタイトルのこの映画は、怪物探しの映画ではないのだけど、強いて怪物かもなぁと思えるのは「子ども」かな。子どもの蠢く場である「学校」とか、子どもを繋ぐ「親子」とか。子どもを巡る関係性は怪物に化けかねないのかなと思ったり。




観ながら連想的に思い出していた映画がふたつ。

「噂のふたり」
オードリー・ヘップバーンとシャーリー・マクレーンが主演。
“子どもの嘘”がたてたさざ波が、大きな事件になってゆく怖さ。
これは戯曲「子供の時間」の映画化なんだけど、戯曲も面白かった。リリアン・ヘルマンの傑作。
教師ホリに関する子どもの嘘や、それが翌日には母親同士で耳打ちし合う状況とか、むかつく怖さで「噂のふたり」を思い出した。

もうひとつは「僕のエリ」
性的に未分化の11~12歳の少年同士が結ぶ親密な関係性から連想。
「怪物」はカンヌのクィア・パルム賞を受賞したらしいのだけど。
ふぅん?そうなの?とちょっとピンとこない。
二次性徴を迎える前のこの年頃の子ども同士の性的な淡い興奮を、LGBTQのくくりで理解するものなのかな、と。その評価がよくわからなかった。なにか見落としてる描写とかあったろうか?
私の理解がアップデートできてないのかも?

あ、「噂のふたり」がいまエントリーされていたら、クィア・パルム賞受賞は確実だと思う。映画が1961年、戯曲の方は1934年。当時はどういう受け止められ方されたんだろ。


「怪物」面白く観たので思いつくままつらつらと。
忘れそうだから。




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