愛情というのは
差し出せる自分の時間の量に比例するんだよ
というのは以前
DiaryNoteにも書いたかな。
いままさに
目の前のひとへの愛情と言うものが
微塵も、カケラもないってこと
痛感している。
膝を傷めてしまったので
車椅子をリースして
病院の付き添いをしたり
家の中で動きやすいように介助器具を工夫したり。
3月に入ってから
そんな風に手を貸すこと多くなった。
私も隠居して時間はいっぱいあるので
器具の手配をしたりなんだり
手を貸すのはどうってことない。
最低限のことしかしないし。
自分の世話はできる限り自分でしてもらってる。
なし崩し的に介護に流れ込みたくないし
絶対!しない、したくないから。
Never!!
それでも、思いのほか時間が取られる。
年寄りだから仕方ないと思うし
仕度や動きを急かしたりはしないで付き合える。
ただなにに気持削られるかっていうと
通じない会話を何度もなんども繰り返されること。
なぜこの器具があると良いのか
どんな風に使うと良いのか
病院に行くタイミングの説明やらなんやら
なんでもない話なのに
なんでこんなに話通じないのかと思う。
気が付くと百万遍聞いた自分語りが始まりそうになるし
クサいにも程があるっていうような
泣きのセリフを聞かされそうになる。
いまそんな話してないし
と思うのになんでそこに戻るのかな
それが老いると言うことなんだろうけれど
その不毛な会話を受け流す
その時間に
ほんとうに気持を削られる。
身体に悪い澱んだ空気を吸わされたような
疲労感が残る。
このひとに
私の時間を使いたくない。
手は貸すよ。それくらいはする。
でもほんと会話したくない。
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