2024年3月25日月曜日

だーかーらー。







徒歩5分、車椅子押してゆっくり行っても10分の整形外科へヒアルロン酸の注射を一本打ちにいくだけのことが、なんで一日仕事みたいな疲労感になってしまうんだろう。

今日は朝から雨なんです。
天気予報を見ると午後から上がりそうだったので「今日は午後からにしようね」と伝える。
T整形の午後の診察は3時からだから、夕方行くよと言っているのに、もう注射打ちにいくことで頭がいっぱいになって着替えを始める。

だーかーらー。
まだ昼前だってば。
まだ雨降ってるし。
いいけどさ。

もともとせっかちで、買い物でもなんでも思いついたらすぐ出かけていきたいひとで。
よくお父さんにも、「まだ行かないって言ってるだろ!」ってイラつかれてたの見て、その時は笑ってたんだけど。これか。

まぁ、ここまではいいよ。
午前の受付に間に合いそうなタイミングで雨あがれば、さっと連れていけるからね。

でも雨は止みそうにない。
今日は行けるかなぁ…と思っていると、階下から呼ばれる。
はいはい。

「T整形の診察券がないのよ。あんた知らない?」
「先週帰ってきて、Tさんは毎週行くからお財布に入れとくって自分で仕舞ったでしょ?」
「ぜんぶ見たのに、ないのよ。どこそこやるわけないんだけど」
「受付で言って作り直せばいいよ」


と言ってるのに、そこから、大捜索。
「あれ見て、そこ開けてみて。 どこやったんだろう?」
たった一枚の紙ペラ探して、押し入れまで開けさすんかい。

30分くらい探し物につき合ってイラついてきたところで
「いいよいいよ、作り直せばいいよ」
だーかーらー、最初からそう言ってるでしょー。

失くしものはいいよ。仕方ない。
(私もつい最近、診察券より大事なモノ一式失くしたしさ)


あれ、見つからない、どこやっちゃたんだろ、まいっか、作り直してもらおう。
と自分の中で解決しないんだよね。どうしようどうしように囚われちゃうのが「老いる」ってことなのかもしれないけど。ひと騒ぎしないと収まらないのね。


こうやって書きだしてみると、ほんとどうでもいいこと過ぎて、私もそんなイラつかなくてもと思うけど、そのどーでもいいことにいちいち付き合わされてしまうことにイラついてしまうんだな。
困りごとを聞いてあげて、安心させてあげて、、、という上手い付き合い方があるんだろうけれど、そもそもこのひとには付き合いたくない、時間をさしだしたくないので、名前呼ばれた瞬間にどよんとする。

呼ばれれば行かないわけにもいかないので「なぁに?呼んだ?」って部屋へ行くけど、そこで始まるのはたいてい何度も繰り返した解決策のない心配事と彼女の願望ばかりで、こっちは「またか」と鬱な気分に染まる。

だーかーらー。

ひとの話を聞け。
聞いて理解しろ。
理解して諦めろ。
そして忘れるな。

ああ、どれも無理ね。
はぁ~鬱陶しい。



   *



私もあと20年もすればこうなるんだろうか。
話が理解できなくなって、自分の不安に頭がいっぱいになってぐるぐるぐるぐる。
私はならないよとは言い切れない。だから余計彼女を疎ましく思うんだよね。
幸か不幸か、呼びつけて繰り言を聞かせて「だーかーらー」と言わせてしまうひとは、私にはいない。「だーかーらー」は「何度おなじこというの?ボケてんの?」っていう憎しみがいっぱい詰まってるので言われたくはないけど。彼女見てると、老いることがほんとうに怖くなる。どーしたらいーんだろー。



2024年3月23日土曜日

「怪物」

 





嵐の日に、子どもたちが消えた。
映画「怪物」、タイトル上手いよね。
ミステリなのかホラーなのか、なにがあったのかって想像めぐらすよね。

邦画が選択肢にまったくないので、友人に薦められて前知識ゼロで観はじめた。
是枝監督作品も、はじめて観る。

友人の口ぶりから伏線やら仕掛けやらいろいろありそうだったので、冒頭からかなり集中して観る。
ひと癖ありますけど、なにか?って顔に書いてある安藤サクラ。
ただ者のはずないだろう?っていう田中裕子。
このふたりが同じ画面で大写しって十二分に怖い。絵面がホラー。
校長室での教員たちの態度のあり得ないような禍々しさ。
もしかして本当にホラーなの?と身構えたり。

でも、それは保護者サオリ(安藤サクラ)視点なんだと、後になってわかる。
映画全体が母親サオリ・教師ホリ・主人公湊の三つのパートで描かれていて、ひとつの出来事をそれぞれの視点でなぞるので時系列が巻き戻ったりするんだけど、すごく描写が上手くてさほど混乱することなく伏線や仕掛けがなるほどそういうことだったのか、と無理なくわかってゆく。サオリ視点で、校舎の踊り場に怪物の雄叫びのように不穏に鳴り響いていた“音”も。これ、上手いなぁと思った。

息子の湊に何か起こっていて、息子を守るために単身学校に乗り込む母親の眼には、教職員の態度はゾンビのように映るよなとも思う。

担任ホリの視点に移ると、サオリ視点を、え?なに?と思うほどホリの新任教師としての誠実さや無力さが見えてくる。

最後に小学校5年生の湊の視点に移る。
麦野湊になにが起こったのか?という設問を立てるなら、湊視点のシーンが真相と言うことなのかもしれないけれど、それもまた事実のすべてではないんだろう。

語り手が変われば、語り手の数だけ物語があって、語られるディティールもそれぞれに不揃いで、つなぎ合わせてもちぐはぐさはモザイクの目地のように残る。そこには不純物のように嘘も混じる。無垢な真実なんて描けない。


湊と友人の星川依里が、二人の秘密基地でするゲーム。
「怪物だれだゲーム」こういう名前だったか記憶にないけど、子どもの頃やった記憶はある。このゲームの、自分がなにものなのかを直接見ることはできなくて、相対する他者に語ってもらう以外自分を知る術がないという、そのことがこの映画では描かれてるのかな。

自分自身を直接見ることはできない。
いまは写真があるけれど、それだって生身の自分を見てるわけじゃない。
(考えてみれば、自分自身を直接見た者は人類史の中でひとりもいない、ってなんかすごいことじゃないか?? 不可能なことと理屈ではわかるけども)

自分を見てるのは他者、目の前の誰か。
自分が人間なのか怪物なのか、見ることはできなくて、目の前のひとに語ってもらうしか知りようがない。
自分の姿は鏡ごしにしか見られないのだと思いいたると、依里の鏡文字も、子どもの発達障害的なものの表現と言うより、鏡像としての自分、の暗喩?象徴として使ってるのかなぁ。
金魚の反転病も?


「怪物」というタイトルのこの映画は、怪物探しの映画ではないのだけど、強いて怪物かもなぁと思えるのは「子ども」かな。子どもの蠢く場である「学校」とか、子どもを繋ぐ「親子」とか。子どもを巡る関係性は怪物に化けかねないのかなと思ったり。




観ながら連想的に思い出していた映画がふたつ。

「噂のふたり」
オードリー・ヘップバーンとシャーリー・マクレーンが主演。
“子どもの嘘”がたてたさざ波が、大きな事件になってゆく怖さ。
これは戯曲「子供の時間」の映画化なんだけど、戯曲も面白かった。リリアン・ヘルマンの傑作。
教師ホリに関する子どもの嘘や、それが翌日には母親同士で耳打ちし合う状況とか、むかつく怖さで「噂のふたり」を思い出した。

もうひとつは「僕のエリ」
性的に未分化の11~12歳の少年同士が結ぶ親密な関係性から連想。
「怪物」はカンヌのクィア・パルム賞を受賞したらしいのだけど。
ふぅん?そうなの?とちょっとピンとこない。
二次性徴を迎える前のこの年頃の子ども同士の性的な淡い興奮を、LGBTQのくくりで理解するものなのかな、と。その評価がよくわからなかった。なにか見落としてる描写とかあったろうか?
私の理解がアップデートできてないのかも?

あ、「噂のふたり」がいまエントリーされていたら、クィア・パルム賞受賞は確実だと思う。映画が1961年、戯曲の方は1934年。当時はどういう受け止められ方されたんだろ。


「怪物」面白く観たので思いつくままつらつらと。
忘れそうだから。




2024年3月18日月曜日

不毛な

 






愛情というのは
差し出せる自分の時間の量に比例するんだよ

というのは以前
DiaryNoteにも書いたかな。





いままさに
目の前のひとへの愛情と言うものが
微塵も、カケラもないってこと
痛感している。



膝を傷めてしまったので
車椅子をリースして
病院の付き添いをしたり
家の中で動きやすいように介助器具を工夫したり。
3月に入ってから
そんな風に手を貸すこと多くなった。


私も隠居して時間はいっぱいあるので
器具の手配をしたりなんだり
手を貸すのはどうってことない。
最低限のことしかしないし。
自分の世話はできる限り自分でしてもらってる。
なし崩し的に介護に流れ込みたくないし
絶対!しない、したくないから。
Never!!

それでも、思いのほか時間が取られる。
年寄りだから仕方ないと思うし
仕度や動きを急かしたりはしないで付き合える。

ただなにに気持削られるかっていうと
通じない会話を何度もなんども繰り返されること。

なぜこの器具があると良いのか
どんな風に使うと良いのか
病院に行くタイミングの説明やらなんやら

なんでもない話なのに
なんでこんなに話通じないのかと思う。

気が付くと百万遍聞いた自分語りが始まりそうになるし
クサいにも程があるっていうような
泣きのセリフを聞かされそうになる。

いまそんな話してないし
と思うのになんでそこに戻るのかな
それが老いると言うことなんだろうけれど
その不毛な会話を受け流す
その時間に
ほんとうに気持を削られる。
身体に悪い澱んだ空気を吸わされたような
疲労感が残る。


このひとに
私の時間を使いたくない。
手は貸すよ。それくらいはする。
でもほんと会話したくない。






2024年3月13日水曜日

バイバイ、RDJ。

 



この左の小母さんは誰なの?
と思ったらサリー・フィールドだった。

さすが
紡績工場で労働組合をつくる主婦と
大恐慌時代に黒人と協力して綿花栽培をする主婦という
社会派映画2本で主演オスカーを獲った女優だ。

1990年代は一番映画を観ていた頃だと思うのだけど
記憶に残ってる映画の多くに彼女が出演している。
で、ハリウッドの栄誉のその先に歩み出したひと。


あの酷いアカデミー賞の舞台で
あのように動ける人がいるというのも
アメリカらしくもあると感じて慰められる。








10年くらい前にロバート・ダウニー・Jr.にハマっていたので
最初に受賞のニュースを読んだ時には
ああ、良かったねぇと思った。
そのあと流れてくる動画を観て
ものすごく嫌な気持になったけれど

いや人柄はとても良い人で
みんなに愛されてるし
演技を評価されながらオスカーに
手が届かなかったから
念願かなってさすがに浮足立っちゃったのかも

などなど
弁解を試みて宥めてた。
ファンだった自分への正当化というか
ファンだったことへの言い訳というか。

だけど、あれはやっぱり
どう贔屓目に見ても非礼だ。
前年の受賞者の “プレゼンテーターとしての栄誉” を
踏みにじっているよね。
キー・ホイ・クァンをボーイか何かのように扱っている。


彼を根っからのレイシストだとは思わないし
(ファンだったことを汚点にしたくなくて思いたくないだけか?)
常々善き人であろうとしている人なんではないかと
思ってはいるけど
たぶん、やっと手にしたオスカーに我を忘れて
そういうぱぁーんと弾けたところで現れる振る舞いは
まあ、たぶんその人の素で。


アジア人は透明な存在にされる
パーティ会場の家具のように扱われる、と
SNSで欧米在住の日本人が書いてたけど
まあ、そういうことなんだろうな。

ポリコレ的に正しい振る舞いも
礼を尽くした態度も
結局は白人&準白人&名誉白人の
仲間内に向けられる敬意で
ロバート・ダウニー・Jrも例外ではないって事だね。

だから
ミシェル・ヨーの ”プレゼンテーターの栄誉” を
守ろうとして(そう思える・思いたい)
浮かれる若い女優のドレスを引くサリー・フィールドの
オスカーのその先にいるひとの振る舞いは
忘れないでいようと思った。


振り返って。
自分の中にだって
隠された差別的な“線引き意識”ないとは言いきれないから。
テンパった時こそ危ないぞ、と。
いや、隠しておければいいって話じゃないけどね。


まあ、この件は
ロバート・ダウニー・Jrじゃなかったら
こんなにショックは受けなかったと思う。
誰かを、何かを好きだと思う気持って
プラスにもマイナスにも大きく感情を揺さぶるよね。






2024年3月11日月曜日

3.11





コブシの花がほころびはじめた。




市の防災無線放送から声がする。
内容がちゃんと聞き取れたことはないが
時計を見ると14時45分まわったところで
そっか、東日本大震災の追悼放送かと思う。


13年。
その日の記憶が生々しいので
13年という時間の長さがなんだかぴんとこない。

あの日、あまりに異常な揺れに
外に出てみると町内の方たちもみな出てきていた。

13年前の今日そこにいたひとたち。
青山さんのおばさん
神田さんのおばあちゃん
前田さんの奥さん
地震とは関係ないけど、その後3人の方が亡くなられた。
そう、父も亡くなったし。
神田さんのおじいちゃんは施設にはいられ
前田さんのご主人は転居された。

前田さんの家は売りに出され
安本さんが引っ越してこられて
娘さんが生まれ
飼い犬のジョンとマルは亡くなって
2代目のジョンが来た。
よく吠えた。
娘さんは4月から小学校に通う。
昨日、安本さんが隣の市に引っ越した。
13年のあいだに
赤ん坊がランドセル背負うようになるほどの
時間が流れたんだな。


お向かいの家は売りに出されたのだろうか。
もともと、って、私が子どもだった頃には
10世帯の町内だったと思うのだけど
安本さんが抜けて
いま5世帯しかない。
ちいさなアパートになったり
空き家のままだったり
5世帯の住人は高齢者ばかりで
えっと、私が最年少です。
町内だけでみると
なんだかここは限界集落のようだわ。
いや、私鉄駅徒歩5分で
他の町内いっぱい隣接してるんですけどね。

あれ、安本さん抜けたから
持ち回りの町内役員
4月からはうちじゃん?
めんどくさいなー。
回覧板回すだけなんだけど。



3.11の追悼放送って
全国で流れるのかな?
近畿地方や九州でも?
熊本地震の放送は記憶にないかも。
阪神淡路はどうだったかな。




 

2024年3月9日土曜日

夜更けてコンビニ






ここひと月ほどばたばたしてて
嫌なことばっかりで
せっかくの良い天気なのに
なにもする気にならず
延々とTwitterを見ていたら
もやもやとした不安に
頭の中がいっぱいになって
手が震えてきて
ポテトチップスとアイスが
無性に食べたくなり
コンビニへ。

こんな時間(午後9時)に
衝動的にコンビニへ走るなんてはじめてだな。
でもなんか、ジャンクな欲求を
押さえる気力がなかった。


ひとくちカヌレアイス
湖池屋ポテチ神のり塩
キャラメルコーン
桜餅
ラングドシャホワイトチョコ
林檎のデニッシュ

買い過ぎだろ…。


ひとくちアイス食べ、ポテトチップスへ。
あーあ、袋の開け方に
心の荒廃が如実に出てるね。
普段こんな開け方しません。ほんと。

あたりまえだけど
買ったもの全部は食べなかったよ?

5個入りのひとくちアイス食べて
ポテトチップス食べてる途中で飽きた。
飽きたけど食べた。

罪悪感はない。
けど、塩味が濃くてさすがに胸焼けしてる。
ちょっと、リバースしたいような気分。
しないけど。
そんなことしたら摂食障害の沼に
一歩踏み出しそうだしな。

口直しに
収穫してあった庭のキンカンを齧りながら
これを書いている。

とりあえず気は済んだ。
胃もたれしてきた。
胃腸薬あったかな…。




嬉しいという感情を忘れてしまうと
簡単に受け取れる味覚のヨロコビに
走ってしまうんだな。
まやかしなのに。

まあ、私は自分を甘やかすの得意なので
ジャンクフード食べるくらい
いいの、いいの、たまにはいいの
と自分で自分に言えるし
ちゃんと後悔してるから(胃が)大丈夫。

歯を磨いて寝よう。
あ、本を読もう。
明日は、どこかへ出かけよう。
この家にずっといると煮詰まる。


どこかに 嬉しい は落ちてないか?





春愁い





なんか良いことないかなぁ。

春なのになぁ。

嬉しいっていう感情が、迷子。



 


2024年3月3日日曜日

財布を落とした。








35年ぶり3回目。
前回はすぐに戻ってきた。
池袋東口の銀行でお金を下ろして駅で切符を買おうとして財布がなかった。
歩いたルートを戻って、意気消沈してすぐ近くの交番に行ったらすでに届いていた。
12月で、色々買い物しようと10万円下ろして財布に入れていたので、こんな繁華街で落として戻ってくるなんて有難かったしありがたかった。銀行の入り口に落ちてたとかですぐ次にATM使った女性が拾ってその足で届けてくれたらしかった。その交番で拾い主の連絡先を教えてくれてお礼の電話をした。10万円は大きかったので、商品券か何かでお礼したいと思って申し出たけれど、お礼には及ばないからと住所は教えてもらえなかった。
財布の中には、銀行キャッシュカードとクレジットカード、たぶん免許証も入ってたからいろいろと紛失届やら再発行やら面倒な手続きもせずに済んでほんとうに助かった。
埼玉にお住いのN様、その節はありがとうございました。

いまは、交番でその場で拾い主の連絡先伝えるなんてこと、しないかもしれないな。



今回は最後に財布出した30分後、交番に行って遺失物届を出し、交番を出てすぐにクレジットカードを止めた。翌日、市役所へ行き健康保険証を、運転免許試験場へ行き免許証を再発行してもらった。
ああ、めんどくさかった。
自分が悪いんだから淡々とやったけど、落ち込んだわ。
まだ落ち込んでる。
保険証、免許証が出てこないのがすごくイヤだ。
クレジットカードと違って「無効」にできないのがイヤだし、住所とか書いてあるのだし(地元で落としてるし)とっても気持が悪い。
遺失物の届けが警察にあるから、万が一悪用されても不正使用の証明はできるんだけど、もしかして何日も経ってから覚えのない請求来たりするかもしれないと思うと落ち着かない。

いまって、他人の保険証やら免許証やらでどんな悪事ができるの?
サラ金でお金借りるとか?不法滞在者のIDにされるとか?
うう、イヤだ。怖いよう。
不正使用されたくないけど、それ発覚するまで手の打ちようがないのがイヤ過ぎる。
IT社会なんだから、不正使用は一発で弾く仕組みにしてほしい、、、とか思わないでもないけど「そこでマイナンバーカードですよ?!」とか付け込まれそうだしなぁ。

ああ、もう、なんで財布落とすかなぁ。バカバカ馬鹿!



35年前のことでわかるけど、拾った人が善き人だったらすぐ戻るんだよね。
現金抜いたうえでシラっと交番に届けたりはしないから。
現金は3万円入ってて、いいよ、それはもう。自分が悪いんだから持ってって良いからさ(すでに、持ってかれてるが)ほんと財布とカード類返して。それ、もう使えないしさ。その財布もすごく気に入ってるし。返ってきて欲しいなぁ。




財布失くしたのの初回は、中学2年の時。
スーパーで買い物してサッカー台で袋詰めして、たぶんその時ポンと台にバッグを置いて忘れた。たしか店を出る前に気づいて戻ったけど、見つからなかった。置き引きってやつなのかな。その時って、お店に届いてないか確かめるとか交番行くとかしないで家に帰ったような気がするな。現金は、中学生の財布だからたいしたことなかったと思うけど、バッグに中学の学生手帳が入ってて、それがショックで。

その学生手帳は、何か月かして拾ったというひとから電話かかってきたんだよね。
お父さんが受け取りに行ってくれたんだったかな。もう学年変わってて、そんなのだけ今頃出てきたことがすごく不快だった記憶がある。


なんか最近、貴重品の始末が悪くて、出先で四六時中バッグやポケットに手を突っ込んで探し回ってる気がするんだよなぁ。家の中でさえも。あ、あれ?あれ、どこやった?どこ置いた?ないないない?あった!なんでここ?みたいなの。

年寄りがよく小さなバッグをごそごそやってるの見て、お婆ちゃんあるある~とか思ってたけど、いまやすっかりその仲間だ。

ああ、ほんと自分がイヤだぁ…。
バーカーヤーロー。。。