2025年2月20日木曜日

石油ストーブ




石油ストーブ。
火がある、歓び。
冬が好きな理由のひとつ。




レモンの砂糖煮。

うちのレモン、大きいばかりで
白いワタ部分が多く果肉もなかったので
食用にしようと思ったことなかったんだけど。
今年、切ってみたら果汁がたっぷりになってて。

皮をピーラーで薄くむいて
細い千切りにして果汁だけで砂糖煮にしてみた。

レモンの皮はエグ味が強くて
たっぷりの水で3回茹でこぼした。
こんなに茹でてしまってたら
香りとか飛んでしまうんじゃないかなって思ったけど
コトコト煮詰めてたら甘酸っぱい匂いが立ち上がってきた。
食べてみたら、レモンの香りが濃くて
とても美味しい。
(砂糖の量はちょっとコワいけど)

柑橘類の皮ってどこにどうやって匂いの成分を蓄えてるんだろう。
素晴らしい。

でっかいだけの役立たずレモンとか、思っててごめん。
いや、鮮やかな黄色い大きな実は
唯一の冬の彩で、充分に存在感あるし
ずっと愛してるよ、ごめん。




昨日は寒かったので参鶏湯(モドキ)
昔は水炊き用に鶏の骨付きぶつ切りを売ってたんだけど
最近はみないね。
骨付き手羽を買ってきて冷凍庫のモモ肉、ムネ肉
クコの実、松の実、レンズ豆、もち米、干し椎茸
葱ショウガ、ニンニク、一夜干しダイコンなどなど
ぶち込みまして肉がほろほろになるまでストーブに放置。
コチュジャン味噌、柚子胡椒、ポン酢の味変で。




そして焼き芋。
安納芋は甘い幸せな匂いをたててあっという間に焼きあがる。

焼き芋には軍手。



ストーブのある冬の日々が好き。





灯油18ℓ・2,680円(2025冬)
店頭価格より300円ほど高いのは
トラックで売りに来てくれてるから。

月に5,000円くらいになるのかな。
安くはないと思うけど、付加価値がいっぱいあるから良いか。
ガスストーブつけっぱなしよりは安いのかな?
エアコンだって暖房は安くないよね?
う~む。。
光熱費の損得計算がいまいちちゃんとできない。


2025年2月10日月曜日

みのむし






庭に蓑虫をみつけた。


いつのまに。
庭であまり見た記憶がないのでしげしげと眺めてしまう。
蓑の材料は、モミジの葉や細枝の枯れたもの。
これ、地面でせっせと蓑を編んで
それを背負ってここまで登ってきたのかな。
陽当たりの良い場所で中は暖かいだろうな。



蓑の大きさ5㎝はあって
ぷらんとぶら下がっているのでオオミノガかな。
オスかなメスかな?







寺田寅彦に「蓑虫と蜘蛛」という随筆があったのを思い出した。
「柿の種」だったか随筆集だったかわからなくて検索してみたら
青空文庫に見つかった。

庭の楓に鈴成りの蓑虫。鈴なり?!



自分は冬じゅうこの死んでいるか生きているかもわからない虫の
外殻の鈴成りになっているのをながめて暮らして来た。
そして自分自身の生活が
なんだかこの虫のによく似ているような気のする時もあった。



蓑虫って、眺めてると
なんだか身につまされてしまうのかもしれない。
高名な物理学者も例外でなく。
そこから、一掃して観察して生物進化に思いを馳せるのは
科学者らしいけれど。






庭に蓑虫を見た時
一番に思い出したのは三浦哲郎の短編で。
読んだのは、たぶん30年位前だけど
なんだかずっと胸に残ってて。
話は忘れてないんだけど
短編って、言葉のひとつひとつ、間合いの一拍一拍が大事だから
もう一度読み返そうかなと思った。

文庫を持っているんだけど
ここに引っ越すときに段ボールに詰めて
そのまま押し入れに収まってて探すのがちょっと難儀で。
楽天の電子書籍のクーポンがあったので
それで購入して読んだ。

三浦哲郎は、死や滅びに向かうひとの
気配が色濃い小説を書く人で。
「みのむし」もそうで。

三浦哲郎の作品に惹かれる気持や
「みのむし」の感想はちょっと言葉にならないんだけど
でも「白夜を旅する人々」を読み返したいと思った。
ずいぶん前に再読してるんだけど、もう一度。

去年までだったら三浦哲郎を読み返そうと思わなかっただろう。
小説も、随筆も。
「みのむし」を読む気になれたこと、よかった。


2025年2月7日金曜日

キレイゴトと他人事





喫茶「ぽえむ」


ぽえむといえば阿佐ヶ谷、中央線と思うけど
こんな私鉄沿線にもお店あったんだね。

スターバックスで寛げない私には
このオールドファッションな“喫茶店”は良い。







こういう懐かしいものをみつけて
カナシミが湧いてくるのはなぜなんだろう。

歳を取ったから?だよね。

歳取ったことを哀しいとは思ってないけれど
でも、これは歳を経たいまだから感じるんだろうし。
胸の中にそっと吹くちいさな風のような感覚が不思議。







岸政彦が聞き書きを続けている生活史について「生活史とは、個人の生い立ちと人生の語りである」とある雑誌に書いていて。
それを読んで去年、なんだか辛くて中断した「大阪」を思い出した。
去年は、「個人の生い立ちと人生の語り」の、その先の終焉を常に見させられている感じで、好きな作家の文章であってもなんかもう今は“お腹いっぱい”なんなら吐きそうという精神状態だったんだよね。

去年はキレイごとではない「老い」がすぐそばにあって、日々、老いと関わる些事にうんざりしながら、反対に頭の中では「老いるということ」をずうっとずっと冷ややかに見て考え続けてた。いずれはこうなるのか、という人生への諦めみたいな感想抱きながら紙パンツをゴミに出した日々。

生活史かぁ。
生活史と思い出話は違うとわかってるけど、言葉で語れるうちが花だし、生活史は他人の観賞に耐える物語だね。

ぱんぱんになるLサイズのオムツ専用ゴミ袋、どうすんのこれ?こんなもん語る言葉浮かんでこないわよ。老いのリアル。語れなくなった先に来るもの。


ツギ ワ ワタシ ダ。


ひと息ついてから。「大阪」も読み通すことができるようになったし、「人生の語り」のその先も意識の上では他人事に戻りつつある。身体は確実に、そこに向かって歩をすすめているけれど、見ないふりする。執行猶予。

取り留めないんだけど。
他人事にしないと関われないことってあるよ、あるんだよ、そうでしょ?ってなにかモヤっとする。なにが「生活史」だぁー?!みたいな(笑)
いや、岸さんの書くもの好きだし、なんなら社会学って私の専攻だったし、興味あるんだけど、そう、興味ある範囲で(他人事で)いたいって話。



ん~なに言ってんだろ、わたし。
ただの書き散らしです。