2024年8月17日土曜日

台風と百日紅

 




台風7号が東京に接近するという予報の朝
夜の間にもそこそこ雨が降ったようで
庭の百日紅の枝が
雨の重さでたわんでいた。

枝先のたくさんの蕾が雨を含んで
かなりの重さになっていて
風が強くなれば
細い枝は折れてしまう。

朝、ちょうど雨が小康状態だったので
庭へ降りて百日紅をベランダの支柱に固定する。
まだひょろっとした幹も煽られて折れかねないので
麻縄で緩く縛る。2か所。
たわんでいる枝を3本、立てて固定。
枝を引き寄せるときに
葉や蕾が蓄えた雨水が降ってきて
あさからずぶ濡れ。

庭に下した百日紅、ここ何年かで
花をたくさん咲かせてくれるようになったのだけど
樹形がひょろりとしているので
台風には弱い。



台風7号
予報より風が強くなくて助かった。

今朝、百日紅の蕾がほころんでいた。
良かった。
保定縄、ほどこう。




昨日は
涼しい、ってこういう肌感覚だったっけ
忘れてたよ、というような気温で
雨は時折強くなったけれど
風がなかったので窓を開けて過ごした。


やっぱり今年の暑さは過酷で
大きく育っていたチョウセンゴミシの葉が
だいぶ枯れてしまった。
ちりちりに灼けた葉を蔓ごと刈り込んだ。


ローズマリーやタイムも
ちょっと草臥れてるみたいな色をしている。
ミントはどこまでも元気だけど。




5月に
川縁からひと枝切って差し穂していた
スイカズラが根付いて新芽を伸ばしてきた。
こういうの、嬉しい。




鉢に植え替えよう。


来年、再来年かな
初夏のハニーサックルの幸せな匂いをかげるのは。





2024年8月16日金曜日

「トゥモロー・アンド・トゥモロー・アンド・トゥモロー」








20年か、いや、もっと前だね。
二度目の千年紀が始まる直前だったと思うから。

小さなネットコミュニティの登録を誘われて始めてみたことがあった。
町の育成ゲームだったんだと思う。アバターが出始めたころ。
充分とは言えない選択肢の中から自分のアバターを造って町に住むと、通りがかりの住民から話しかけられる。吹き出しの中の「こんにちは」、3頭身のアバター、ぎこちない動き。
馬鹿々々しくって2、3回ログインしてそれきり放置した。

いまでもそうだけれども、思いっきり“文字の人”なので、あのキャラクターにアイデンティファイするのは無理だったな。

私のゲーム体験はそんな程度で、FFもポケモンも、あつ森もプレイしようと思ったこともなく興味もないんだけど、それが障害になることなく、この「トゥモロー…」を堪能したよ。




永遠の子供、サム。
鼻っ柱の強いお姫様、セイディ。
賢明な守護者、マークス。

彼らの物語が好きだ。
ページの中に時々出てくる3つの点であらわされる数学記号が印象的で。
「∵」なぜならば、と「∴」ゆえに。

なぜならばサム、セイディ、マークスゆえに。

三つの点で表される、三人ならではの関係性。
そんな風に読んだ。




本のタイトルにもなっているTomorrow Speech。

Tomorrow, and tomorrow, and tomorrow
Creeps in this petty pace from day to day
To the last syllable of recorded time;

人生最後の瞬間をめざして歩むにはなにが必要だろう。

3人の物語。
それから、3人が作りあげるゲーム――という物語。

生きてゆくにはなにか、物語が必要なんだと思う。
それとはっきり意識するかどうかは別にして。
実人生では、ゲームのように何度もリセットして再スタートすることはできないけれど、だからこそ、自身のリアルからほんの少しはみ出した「こう生きたい」「こう生きられたら」と思う物語の端っこを夢想したい。

マークスを失って、セイディと疎遠になって、セイディの存在にサムが感じたのは「希望」で。
微かでも、遠くても、希望が感じられるから明日も、明日も、また明日も、、重い足を前に出すことができる。だから物語を最後まで繰ることができる。最後の最後に、希望が置かれてなかったとしても、最後の瞬間に至るまではひとは希望を見るんだろうと思う。
(そうだったらいいな)




ゲームというものが生まれるずっと以前の人が小説を書いたように、70年代に生まれてゲームという言葉を持っていたサムは「いちご」をプログラムすることで物語った。
ゲームの変遷には疎いけれど、ゲームというのが“世界を作り上げる”もので、ゲームというものがこんな物語を生むほどひとを育てる文化になってたのか、と80年代からの40年をちょっと見直すような気持にもなった。

アバターに馴染めなかった私だけど、テキストオンリーではあるけれど四半世紀書き続けて、実人生からすこしズレた、自分で取捨選択した物語をアップロードし続けてきたような気もするし。やっぱり、物語ることは大事なんだな、と。他人様にプレイしてもらえる(読んでもらえる)レベルかどうかはさておき。






散りばめられたアイテム(?)も結構好きだった。

ローリングストーンズ「ルビー・チューズディ」
ジョニ・ミッチェル「リヴァー」

根津神社、涼しくなったら行こうかな。
完全無欠、ひとつの瑕疵もないマークス、出来過ぎ。ゆえに、まあ、そうなるか。
でも、ページ繰りながら「えーやめて、やめて、マークス死なないで」って思ったわw




Thanks,Hanya.

2024年8月12日月曜日

Hiraeth <ヒラエス>





 Hiraeth/ヒラエス ウェールズ語

帰ることができない場所
失った場所や永遠に存在しない場所への
郷愁と哀切の気持ち




郷愁とか望郷とか追憶とかともすこし違うのだろう、日本語で当てられる言葉がないというHiraethという“想い”が胸の中に住み着いている。


   *


―――追憶は禁じられている

この一行が繰り返し心に浮かんでくる。
「やがてヒトに与えられた時が満ちて…」の舞台、ラグランジュ宇宙都市の法だ。
この一行で、そこがどんな世界かわかる気がして。苦しくなる。


   *


「大阪」は岸政彦と柴崎友香の生活史で、Hiraethの書だ。
読みはじめ、気分が悪くなるくらいに嫌な予感がした。
大阪の街など縁もゆかりもなく土地勘もまったくないのに、読み進めたら思い出の封印がとかれて苦い思いに飲まれそうな気がして。


   *


「断片的なものの社会学」を読み直している。
出版されたときに図書館で借りたのだけど、たぶん予約がついていたので斜め読みしてしまったみたいで、こまごまと心残りで。
続けて岸政彦をあれこれ読んでいるのだけれど、“生活史”というものの重さを、今の私は受け止められない。


   *


―――ひとりひとりの無名の人間のなかの壮大な生老病死の劇

宮本輝が37年かけて書き上げた「流転の海」の最終巻を読んだ。
松坂熊吾という魅力的な男の、これもまた生活史。
原稿用紙7,000枚を費やして描かれる、結局ひとはすべてを失って死ぬという事実。


   *


橋本治の「草薙の剣」も柳美里の「JR上野駅公園口」も生活史なんだと思う。
社会学者がフィールドワークして書くか、小説家が創作するか。
描かれている人生の根本に大きな違いはない。
結局は、生まれて、生きて、なにもかも失いつつ、死ぬ。無名のまま。


   *


なんでこんな無名の人生を読み漁っているんだろう、私は。
消化しきれず胃もたれしながら赤の他人の生活史なんぞ、なんで読んでるんだろ。

以前は、小説だろうが社会学だろうが、そこで語られる人生は所詮“他人事”だった。
いまは、なにを読んでも生々しくて重い。ひとが生きて蠢いている、それが街に溢れているというのがキモチワルイ。
結局、すべて失って、死んでいくだけなのに。

私自身が歳を取ったからだ。だから他人事に思えなくなった。
この先もう、生老病死の、死くらいしかないと思うからだ。


   *


失っていくのが、人生というものであるらしい。
そして、手に入れたものより、失ったもののほうがそのひとらしさを色濃く反映するもののようだ。
失ったもの、手に入らなかったもので、ひとは(私は)出来上がっている。
出来上がっている、にもかかわらず、失っているのだから実体はなくて、ひとの(私の)中は空っぽだ。


Hiraethというのは、どこで失くしたんだろうと考えても考えても思い出せない落とし物を探すような気持かもしれない。そして、ほんとは探し物がなんなのかすら思い出せないのだ。
空っぽの私の中を吹き抜けるひそやかな風を感じて心細さに振り向くような、そんな感覚かもしれない。





2024年8月9日金曜日

I miss you.





コメダ珈琲で
フィッシュバーガー頬張りながら
鼻すすりあげて
泣いてたのは私です、こんばんは。



ランチしながらSNS開いたら
前日のポストにリプがいくつかついてて。



療養に入ってから
チバはひとことも言葉を残さず
逝ってしまって

ただのファンには
知りようもないことだけど
どんなふうに最期の日々を過ごしたのかなって
どうしても考えちゃうな



そんな内容のポストに
みんなおなじように思ってたんだろうね。
フォロワーでもないひとからも
リプがあって
それ読んで、返事を書いてたら
涙がこぼれて仕方なかった。

ひとり掛けのカウンター席で
両脇に衝立があったので
まあ、そう怪しまれることもなく
グスグスして
I miss you.に耽溺して過ごした。

なんですかね
日本語の恋しいとか悲しいとか寂しいより
I miss you.
という語感がぴったりなんだけど。

まあ、誤用しててもいいや。







というような日々で
相変わらず彼の不在が心にしみるんだけど。

実生活の閉塞感や
終末感しかないニッポンの状況に
ストレスしかないのに
そのことを吐き出すすべがみつからないので
さらりと感情を涙にしてくれる
チバを想う時間は
たぶん、心理的な置き換えというのか
救いになってるんだと思う。






だけどやっぱり
ライブの声が聴きたいなぁ。