名前があるから、あれ、どういう関係性のひとだったっけ?と
人物の性格が気になったりする。
逆に言うと名付けられていない人物は「同僚」とか「弟」とか関係性だけで記述されてそのまますんなりとそこに納まる。けれども個性はなくのっぺらぼーのままだ。
この小説の中で男性に名前が与えられていないことに気づいたのは解説を読んだときだ。
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この小説の特徴は、キム・ジヨンをはじめ、母親のオ・ミスク、祖母のコ・スンブンをはじめ、女性が皆フルネームで登場することだ。これは特別な意味を持つ。韓国社会では結婚と同時に女性は名前を失い、「〇〇さんの母」と単に家族の機能のように扱われる。これに関連して、小説の中では、オ・ミスクがほんとうは先生になりたかったといった時、とても驚いたというキム・ジヨンの回想が出てくる。
「お母さんと言うものはただもうお母さんなだけだと思っていた」
家族の中だけに限らず、ママ友やご近所同士でも、女たちはたがいの苗字も名前も知らないことが多い。この小説では、それぞれの女性にきちんとした名前を与えることで、彼女たちを家族の機能から切り離し、独立した一個の人間として、リスペクトする態度を見せている。
それだけではない。この小説では、夫のチョン・デヒョン以外の男性には名前がない。父親も祖父も名前は書かれず、すべて親族名称のみで記されている。キム・ジヨンの姉キム・ウニョンや義妹チョン・スヒョンにまで与えられている名前が、弟には与えられない。ずっと「弟」のままだ。さらに職場の同僚も、病院スタッフも、女性だけが名前を持っている。
男たちに名前など必要ない――強烈なミラーリングである。 <解説:伊東順子>
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強烈なミラーリング。
名で呼ばれることのないひとたちは、主人公に近しく関わってきていてさえも、重要な人物とは認識されることなく曇った背景の奥から時折登場してまた後ろに沈んでいくだけ。とるに足らないモブとしてしか意識されないんだということを、小説を読みながら私自身が体験していて、そしてそれに気づきさえしない。言われるまで気づかないってとこまで含めて、上手い仕掛けになってるんだな。
〇〇さんの母、か。
蜻蛉日記の藤原道綱母とか思い出すけど、すごいよね。
最高の日本文学とされる源氏物語や枕草子でさえ、紫式部、清少納言と役名で残ってるだけで本名はわからないんだもんね。
女の名前は残らない。千年前からかわってない。
女にも、もちろん男にも、のっぺらぼーの人間なんかいないって、ちゃんと気づかなくちゃいけないよなー。
書かれた時期が「n番部屋」ともリンクしていて、ここ10年ほどのフェミニズムの状況がよくわかる。
フェミニズムが、上記のような千年の呪縛を踏まえて女の側から起こる異議申し立てになるのは当然だと思う。でも、気がつくと男と女の対立構図になってしまって、そうなの?と思う。
問題意識でいうとフェミニズムって女の問題と言うより男の問題と思うし、もっと言うと女の問題・男の問題と言うよりヒューマニティの問題だよね。なぜそこまで視点を上げて考えられないんだろうな。
震災の避難所で生理用ナプキンを欲しいと言ったら、不公平だ男にもなにか用意しろとか、マジで言ってんのか、ネットの落書き的言動とわかってて言ってみてるだけの幼稚なバカなのかわかんないけど、そういうレベルだからどーしよーもないよねー。
とりあえず「〇〇ちゃんママ」と呼ばれる人生じゃなくて良かったとは思う。たまたまでしかないけれども。