2025年5月19日月曜日

消息

 




あの人は、どうしてるかな
そう思うとき
その人は、遠い。
遠くて、静かで、静かで。
どこか幻のよう。


消息っていう漢字のイメージかな。

「消」は死ぬこと、「息」は生きること。


しょう そく【消息】
どのように・(何をして)暮らしているか。
新明解国語辞典・第三版





ひと月ほど前に
古くからの友人二人と会った時に
共通の知人が亡くなっていたことを知り
後頭部、ぼんのくぼあたりに
その消息がじんわりと残って消えない。

教えてくれた友人二人も
直接の付き合いは途切れていて
亡くなったことは人伝に聞いたのだという。

友人二人と私と、その亡くなった彼女と
そのほかに5人、6人の顔ぶれで
笑いあって過ごした日を思ったけれど
その日々からもう20数年経っていて。


その“消息”としか言えない距離感に
流れた年月の量が実感できなくて
気持がうろうろする。


じつはもうひとり
訃報を目にした方がいて。

ちゃんとした学会誌の記事で
そこで同姓同名などたぶんないだろうと思うので
ちょっと息が浅くなる感じなのだけど
確と知るすべもなく
いや、なくもないのだけど
それを私がしてどうするというのかと思えて
ただ霞のような消息に
薄い溜息が出る。


もっと近しい関係性の中で
生きるの死ぬのを知らされるのもしんどいけれど
この漠々とした距離で届く消息の
とらえどころない薄い寂しさも
なんだか手に余る。

押し入れの奥から出てきた
色褪せた写真を手に取ってしまい
さて、どの引き出しにしまったらいいのか
思いつかなくて困ってる時みたいな。

でも、たぶん、この先
こういう気分になる消息が増えていくんだろうな。
もう輝きも消えたAfterglowのなかを
闇に向かって歩いてゆくような時間。



そして逆もあるんだなと思う。
誰か遠いところにいる知人のところに
消息として私のことが届くことも。
いや、私は、誰のところにも届かないかもしれないけど。
それはそれで、むしろ、それでいいけど。





2025年5月10日土曜日

庭のいきもの

 


ちいさなカタツムリ。

カタツムリはあまりみかけないので
ようこそ、なんだけど
どうやって、ここにいるんだろう。

こういう地を這ういきものが
地上160㎝のオミジャの葉にたどり着くまでの
旅の長さを思う。






もうすぐ成虫かな、という
テントウムシ。

今年はテントウムシの幼虫を
いっぱい見る。
枝を切ってたら袖にくっついていたので
アブラムシがついてるモミジの葉のそばに放したら
さっそく食べに行ってくれた。Good!

テントウムシは大歓迎です。







常連のナミアゲハ。




もうすぐ蛹化の旅に出るくらいかな。
この間まで、たぶん越冬組だろうなと思う
ちいさなナミアゲハが飛んでいたので
このこたちはその次の世代かな。
大きくなるね。
実生の山椒の木はナミアゲハに開放しています。






カナヘビ。
カナヘビとニホントカゲの違いが
よくわからない。
けど、これはカナヘビらしい。


2025年4月20日日曜日

「マット・スカダー わが探偵人生」

 





2015年に出た「償いの報酬」を最後に
マット・スカダーの長編はもう読めないかもしれないと
ローレンス・ブロックの年齢を数えながら思ってた。
まさか「自伝」が刊行されるとは!

「短編回廊」では自作を収録せず
書いてももうストーリーがどこにも着地できないと言って
ぼやいていたブロックさんだったけれど
こんな仕掛けをもってくるとは。

スカダー・シリーズは全編通じて
マットの語りに苦い味わいがあってそこが好きだったので
最後に読めて良かった。

シリーズをちゃんと閉じるところ
さすがMWAのグランドマスター。






ちゃんと目を通したんですか編集さん?と思うくらい
校正モレがたくさんあって、ちょっとイラっとした。
二見書房、大丈夫なのかなぁ。





2025年4月14日月曜日

夢疲れ

 





夢見て疲れている。




昨日。
知り合いの20代の子たちが
向井秀徳さんと一緒に小さなフェスをやるという。
え、いいね。すごいね、とわくわくしてたら
なんか運営の手伝いをすることに。
途端にめんどくさくなる。
フェスの最後には坂本龍一さんに
ピアノを演奏してもらって閉会にするという。
えええーなにそれ?
絶対失敗できないじゃない、と驚く。
大きな流れが動き出して、うわぁ抜けたい!と焦る。



今日。
振袖タウンという人気のグルメスポットで
ひとりランチ。
韓国ビストロで牛ローストのなんちゃらソースを食べる。
美味しい。いやいやほんとに美味しかった。
(夢でちゃんと食べてるって珍しくないか?)
おススメされた料理で
ランチ2,000~3,000円だったから
これは5,000円くらいはするかなぁ
でも美味しかったしいっか、と思いつつ会計。
210,059円也!!!

ええー??ぼったくり!?
現金払いだと?
こんな金額聞いてません、というも
マスターほか従業員二人出てきてあーだこーだ。

どーしたらいいの?
110番したらいいの?
メンドクサイから払っちゃうか。
ATMに下ろしに行く。

コンビニのATM、6桁の暗証番号入れろと。
6桁?え?そんなん知らないし!
えーどーしよー、メンドーーーー!!!






悪夢ってほどではないけど
面倒ごとから逃げたくて困ってる。

あーーーーもう、ほんと面倒なこと嫌いなんだよぉ。


春だからかな。
カロライナジャスミンの花がこぼれるくらい咲くように
オミジャの蔓がもりもり這い登ってくるように
ほんのり冬眠してた脳が覚醒しようとしてるのか。
暖かくなって夜の脳が溶けて来てるのか。

布団がまだ冬仕様のままだ。
カバーを替えよう。








2025年4月12日土曜日

春はきらい







今朝の夢。

日本沈没という大カタストロフィに生き残った。
八ヶ岳辺りの高原にいて
生き残ってしまったことに絶望していた。


生き延びたと、難を逃れたと
喜ぶ能天気さがあれば良かったのに。
夢なんだから。

いまや絶海の孤島のようになってしまった高原で
どうやって生きていくのか。
なんて、そこリアルに考えて絶望してるところが悪夢。




春はいつも体調崩しがちなんだけど
ひさしぶりに喉風邪をひいてしまった。
耳鼻咽喉科へ行って治療してもらって
薬飲んで喉の違和感は治まったけどうっすらと怠い。
熱は出なかったからさほど辛くはないんだけど。
なんかずっとずっと眠い。

お薬手帖を見たら、前回の同じ処方は2021年で。
コロナ禍下で、ほんと用心して過ごしたからな。


毎朝、夢疲れして、目覚めて鬱々としている。
体力もなくなってるし
一日出かけると翌二日くらいダラけてしまう。
無敵の元健康優良児も見る影もない。




ローレンス・ブロックの新刊がでた。
「マット・スカダー わが探偵人生」

マシュウ・スカダーの自伝。
ゆっくりゆっくりページを繰っている。
ほんとうにこれで最後なんだな。




ああ、眠い。
春はきらい。



2025年4月9日水曜日

MAY SILENCE BE WITH YOU






「坂本図書」へ行ってきた。




とても良かった。






予約をして、3時間の滞在が許されて。

蔵書の棚をさっと眺めているだけでも
時間は経ってしまうから
坂本さんの自著の棚から一冊抜き出す。

「音楽と生命」の続きを読もうかと思ったのだけど
背表紙の優しい色――和色なら勿忘草色、洋色だとヘブンリーブル―かな
その青に惹かれて「ピアノへの旅」を。

とても良かった。

言及されてる本を読みたくなった。
音楽を聴きたくなった。
メモした。







ピアノはボディを作るのに
大きな力を半年ほど掛け続けて撓めること
だから調律し続けなくてはならないこと
放っておいたピアノの音を「狂った」と言うけれども
木がスチールが元のカタチに戻ろうとしているだけなのだから
そのままで良いじゃないかと
所蔵するピアノの一台の調律をやめたこと

東日本大震災で津波に流されたピアノの音を美しいと思ったこと
ひとではなく自然が調律した音なのだと思ったこと
音階から解き放たれて自由に鳴る音を聴きたいと思うこと
いち音の響きが消えてゆくその時間を聴いていたいこと


坂本龍一が心惹かれた音に共感する。





古いビルの一室にある坂本図書はこじんまりとして
坂本龍一の演奏する曲が――「async」や「Opus」――
文字を追う視覚の働きを邪魔しない小さな音で空気に溶け込んでいて
とても集中して本を読んだ。





静寂に至る音楽と沈黙とともにある空間。




とても、とても良かった。



2025年4月4日金曜日

儚い。

 



幼年期のさなか、美しい夢から目覚めた私は
その素晴らしさを母に語った。
母は優しく耳を傾けてくれたけれど
少し物悲しい表情になり
「その夢のことも、だんだん忘れてしまうのね」
とつぶやいた。
こんなに美しいものを忘れるわけがない。
首をかしげる私を見て母は微笑んだが
もしほんとうに夢が消えてしまったらどうしよう。
時間の果てしなさにぼんやりと思い至り
ほんの少しだけ恐ろしくなった。
その日、鮮やかな光景を失う恐れと
母の物悲しい顔が気にかかり
私は毎日この夢を隅々まで思い出すことにした。
<美術家・福田尚代>



そうして福田尚代さんは高校生の頃まで
その夢を思い出すことを毎日続けたという。







夢の中で
大好きな声が歌うのを聴いた。

遠くの山並みまで視界の開けた
広いルーフバルコニーのベンチに座っていると
右後ろから声が聴こえてきた。

知り合いの子どもに
いまこんな曲を作ってるんだ
次のアルバムに入れるよと話し
メロディーを歌いだした。

隠れていたわけではないけれど
歌う鳥の邪魔をしない時のように動かず
でもリラックスしてその声を聴いた。息をのんで。

ああ、その歌は間に合わなかったねぇ
と思いながら。


目覚めてシアワセだった。
やっぱり、姿は見なかった。
私にとってのチバは、声だから。
もちろん姿も見れれば嬉しいような気もするけれど
声が私にはいちばんのリアルだから。

しっかりと思い返して忘れないでいようと思ったけれど
それはやっぱり無理だった。
夢の中で聴いた声を、どうやって記憶したらいいのか。
歌う声のそばにいて聴いた、その時の感覚を
どうやったら留めておけるのか。
目覚めて、反芻しはじめた瞬間に
声も、鼓膜の震えも朝霧のように消えてゆくのに。


これを書いているいまなんて
もうなんにも残ってない。
哀しいくらいに儚い。







何年も何年も、毎日思い出すことのできる夢。
それは、良いものなのかな?
芸術をやるひとならではの、資質なのかな。
自分の中で昇華させたイメージなのかな。


10数年にわたる反芻に耐えうる、それは、夢なの?






夢で、聴いたという
微かな愛おしさだけが残ればいい。
それだけでいい。ね。