2025年8月9日土曜日

誰かの日記





NHKでたまたま観た
「誰かの日記を開くとき」という番組が面白かった。

この日記は、なぜ、ここにあるんだろう?
NHKの番組の中で、開かれて読まれて感想を語られる
無名の、たぶん健在の、一個人の、手書きの日記。

手帳類図書室という私設図書室があって
そこに2,000冊の日記が寄贈されて保存されていると知る。
日記を書いた本人が持ち込んだものが多いようなんだけど
書き続けた日記を手放そうと思ったのはなぜなんだろう
その動機が気になるなぁ、と考えながら観てた。



日記というなら、私も「花風」というダイアリーを
20年書いてるわけだけど、でも番組内でも触れてたけれど
誰かに読まれるのを前提のSNSと紙の日記はやっぱり別物で。
手書きの日記の赤裸々感はSNSとは比べものにならなさそうだしな
とか、つらつら考えてて
あ、これは「日記供養」みたいな感じなのかなと思った。

お札とか人形とか、とても濃く近しい感情を持って
ある時間を過ごして捨てるに忍びないものを
供養するみたいに手放す。
大事に大事に握りしめて向き合ってきたものでも
ふっと、フェーズが変わって役目を終えるものってあるじゃない。

SNSやブログだってそうだけど
ネット上にあるものはそのまま放置してもいいし
サクッと削除するのも簡単だけど
あんがい紙の手帳とかノートとか質量の実体のあるものって
処分に困るものね。
生ごみと混ぜて燃えるゴミに出すのもなぁ、って。
引き出しの奥に10年分くらいのスケジュール帳があって
めくってみると断片的に記された日付や場所からでさえ
ある日の記憶が呼び覚まされるようなこともあって
なんとなく捨てそびれてたりするし。

捨てるかわりに供養するんだね。



あと、岸政彦がやってる聞き書きの生活史のことも
連想的に思い出して。
自分以外の誰かに語る言葉と
自分だけに記す言葉と。
そこに立ち現れる「自分」はきっと別の者だろうとも思ったり。
ひとひとりの人生って多面的、重層的、あんがい複雑よね。
どんなに平凡な人生でも。
なんか「鬱陶しいもんだな」ともチラと思ったりも。


2000年代を生きている無名の日本人の日記も
数百年経てば文化資料になるんだろう。
万葉集の詠み人知らずのように。
手帳類図書室の主催者の仕事は文化事業だよね。







なんだか人が生きているって、ふと
キモチワルイね。












NHKオンデマンドで観ていたので、流れで
坂本龍一「Last Days」を続けて観る。
ここにも日記が。
有名な、名前と顔のわかる日記。









世の中には
言葉を記そうなどと考えることもなく生きる人もいっぱいいるよね。
私のお父さんがそうだったように。
不思議だよね。なにが違うんだろう。
別に違わないか。どうだっていいことだね。



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