2025年6月25日水曜日

緑に染まる

 




太平洋上の、台風になり損ねた低気圧のせいで
今日は夜明け前から激しい雨が降ったり止んだり。

陽が射して、上がるのかな?と思うと
バケツをひっくり返したような雨。
空のバケツリレー?

気温は低いけど湿度がすごくて
窓を閉めていちにちぼんやりと過ごす。




本を読む部屋の外に植えた
アジサイ、セイヨウニンジンボク、サルスベリが
健やかに根を張って枝葉を伸ばしてくれて
昭和な型板硝子が緑色に染まって綺麗だ。

窓を開けられる時は
枝が風に揺れるのを飽かず眺めるけど
窓を染める緑の光にも見惚れてしまう。






今日はもう本も読まず
気が付けば一日終わりそうな午後5時。
ミドリイロって時間を忘れさせる魔法のひかり?


仕事行ってた時は昼休憩までが長くて
午後の時間は滞って時計は止まってるようだった。
ばたばたと忙しいから時間が早く流れるというわけでもないんだな。

この頃はほんとにぼぉんやりと日が暮れるなぁ。

いまさら建設的な生き方探したりしないし
クリエイティブな時間も求めてないけど
もちょっとなにか焦るべき?

まあ、いっか。
御隠居さんの時間は腹時計で進んでいくんだしね。



あ、窓汚れてるね、硝子拭きはしようかな。
そのうち、ね。




2025年6月18日水曜日

天文薄明





6月17日、19時23分の小待宵草。
どこにもピントが合ってない。





この日の日没は18時59分。
日暮れて、こんなにも美しい空。


日没の後
上空の大気が太陽光を散乱して光っている状態が日暮れ。
ちゃんと定義があるんだね。

「戸外での作業が差し支えない」
「宵の明星が見える」
「航海する船の上で水平線が確認できる」
という明るさの空。

かなりファジーな定義ではあるけど(笑)




この日の暮れ終わりは19時37分。

だけどそのあと20時48分まで天文薄明と呼ぶ薄明りの空になるのだって。
夏至の頃の、長いながい夕暮れ。



何時何分まで切って表示されてるわりには
観測者の視力にも拠るでしょ?と思わなくもないけど
宇宙のスケールをヒトの時間で測ろうと頑張ってきた天文学者たちの
生真面目さが“いとをかし”と思う。







大きな水の流れの上にある空が美しくて
“歩く”は続いています。




2025年6月8日日曜日

502 Bad Gateway

 





一時的なサーバーの不具合といっても
サーバーメンテナンスが終了して、もう3年経つので
このまま
Not Found になってしまうのかなと、思ったけど
ちゃんと表示されてて、良かった。


DiaryNote。



あそこは、私の記憶の外付けメモリーみたいなもんだから。













上巻650ページ終わって
話がほとんど進んでないのだが…。
毎度まいど迷路のような病院の中を歩き回って
誰かを探し回ったり逃げ回ったりしているのは
なにかの暗喩なのかとも思わなくはないけど。
650ページ全部、伏線なの?










認知症の進行具合をトレースした音楽作品。
6枚組、6時間超。

とても気になるし
聴いてみたい気もするのだけれど怖いよね。
聴きながら
共鳴して認知を持っていかれてしまったらどうしよう
なんて考えてしまう。



たぶん、近々、聴くと思う。






この音楽のことを教えてもらったあと
思い出したブログがあって、久しぶりに訪ねてみた。

若年性アルツハイマーになった奥様を介護している方のブログ。
数年ぶりに訪ねたら、昨年、奥様が亡くなられていた。
発症から20年。
まだご自宅にいて、奥様の人生のいろいろが失われつつある頃の記事を
ご本人はどれほどの恐怖だろうか、と慄きながら読ませてもらっていた。

右手に持つモノがコップだということも
それが水を飲むモノだということも
水を飲むというコトさえも
思い出すことができなくなってゆく。

家を出て街をさまよい歩き
部屋で叫び、窓を破り、暴れて泣く。
怖かったんだろうな、逃げたかったんだろうなと思う。
消えてゆく自分自身が、まだ見えて、わかる状態にあるひとの
恐怖は想像を絶する。


The Caretakerはそれを
どんな“美しい”音楽にしえたんだろうか。






 "Everywhere At The End Of Time" がたどり着く空白は
『航路』が描いたあの極致にも似ている。<引用元不明>


「Everywhere At The End Of Time」のレビューの中で
触れられていた小説「航路」を読んでいる。
ものすごい遠巻きなアプローチだな。






Lifeって、記憶のことだよ。

出来事やそれにまつわる感情といった“思い出”だけではなく
立ち上がること、歩くこと、飲み込むこと
排泄すること
生物に備わったそれらの生理的な動作でさえも
“記憶”が支えている。


Lifeが消えてゆく日々の
呼吸することさえ忘れてしまうまで続く“人生”

波打ち際に築き上げた城を侵食する波にあらがうように生きても
勝ち目はまったくないのに。





言葉に残してきたような“記憶”だけで
生物としての わたくし は生きているわけではない。
Lifeのすべてをバックアップできる日もくるんだろうか?
できたとして、それは誰の、どういう人生だってことなんだろう。

人生のページを開こうとして
Not Found と表示される日もあるのかな。
自分の記憶がNot Found と認識してしまうって
矛盾してる?成立不能か。

なんかサイバーパンクSFの世界みたいだ。



とりあえず「航路」の続きを読もう。








2025年6月3日火曜日

パティ・スミス@MOT

 






パティ・スミスの音楽はほぼ知らない。
パンクな音楽は私の耳には届いてこなかったし。

パティ・スミスは雑誌のインタビュー記事なんかで見かけると
そのマスキュリンな姿に惹かれて読んでいて
だから断片的にしか知らないのだけれど
思慮深くて洗練された(知的に)ひとだなぁと思ってた。
歌をちゃんと聞いていない私には
パティ・スミスは言葉のひとなんだよね。




2016年のノーベル賞授賞式での様子も好きで。
ボブ・ディランの代わりに彼の曲を歌ったんだけど
途中で喉の奥が詰まったようになって声が出なくなってしまう。

演奏をとめてI apologize…と
謝罪する表情が誠実で優雅でとても良かった。
完璧に歌い終えるよりも、彼女の振る舞いが記憶に残ったし
この日のパフォーマンスはとても美しかったと思う。

王や王妃を目の前に
come on! you can do it!
って内心で叫んでたわ、ってのちのインタビューで言って笑ってた。


おかげで、ボブ・ディランのこの詞もちゃんと読んだ。







4月の終わりに
SNSにパティ・スミスが来日してる様子が流れてきて。
「コレスポンデンス」のパフォーマンスがオペラシティであると知って
観たいなぁと思ったんだけど、とっくにソールドアウトしてて。
ほんとこういう情報取るの遅すぎる私。


5月、エキシビジョンのほうを観に現美へ出かけた。
空いてたので真ん中のベンチに座って四方の壁に投影される映像を
自由に眺められて良かったけれど
2時間あるので、ちょっと集中切れたかな。
背もたれのあるソファ、欲しいです。

延々と続く殺戮と破壊の映像に倦んできたところで
パティ・スミスの声が静かに流れてきて耳傾ける。

世界で起きた大規模火災の年と場所
動物の、絶滅が確認された年と種名

死や死に至らせるものを物量で見せる聞かせるのは
よくある手法だけど、でも説得力はある。
なすすべもない感覚がして。

詩は意味が取れないので音として聞くしかないけど
こういう羅列は、聴いててわかるし。
元気は出ないけど。

パティの歌はまだあまりピンと来ないのだけど
リーディングの声は好きかなぁと思う。



いまはこれを読んでいる。